第二夜 | 夜直の舌戦 Ⅱ
──勝てない。
セヴォンの本能がそう告げていた。
負けると分かっている殺し合いに挑むほど馬鹿な事はない。あれだけ殺気立っていたセヴォンが瞬時に選び取ったのは敵前逃亡の四文字だった。まだ新しい雪や薄氷を踏むように、静かに、ゆっくりと踵を下ろす。靴の
(──こんなバカな事があるか!?)セヴォンは己の不運を嗤うしかなかった。(寝具で戦えって?面白い、やってやる……!)
天蓋を引き裂いて手頃な布にすれば首を締め上げるのに役立つだろうか?あの油絵を外して大盾のように扱えば腕の一本くらいなら助かるのか?──無理だ!何をどう駆使しようにももう時間がない。血走ったセヴォンが唯一手に取れたものと言えば、何の役にも立たない小柄な写真立て一つだった。褪せた写真の中では三人の子どもが朗らかに笑っている。……見覚えがある気がする。右端の子どもに良く似た誰かが、ちょうど、こんな顔をして笑っていた気がする。
(誰だ、コイツ……?なんか馬鹿そうだな)
セヴォンは自身が置かれている状況も忘れて食い入るようにそれを見詰める。子どもの名前と、致命的な短所と、遠い昔に交わした言の葉達が蘇りそうだった。その男は、確か赤い髪に黒のメッシュ、ロクに締められていないネクタイとなかなか学のなさそうな見た目をしていて、常にペラペラと喋っていて、いつも自分の隣で
◆
『おい!アンタも死んだのか?』扉の向こうで懐かしい声がした。『俺もだよ。俺も未練タラタラで死んじまった。──知ってるか?俺達みたいな動く死体を巷じゃあ吸血鬼って言うらしいぜ。他人様の家で何してくれてんだ、とは言わねぇよ。だって俺達、仲間だしな。いやあ、マジで嬉しいよ!アンタ、名前は?』
「……ルイ?」
その名を口にする。
『マジで?俺もルイって言うんだけど。まあいいや。なあ、アンタはどうして……』
「ルイ……?」
セヴォンが手に取った武器は吸血鬼伝説に於ける第三の定説──『吸血鬼とは、未練を抱いて死んだ人間が不死となり蘇った果ての肉塊である』という定義だった。自分の声に魔法をかけて、自らを仲間だと主張する。セヴォンが模倣対象とした死人は一条ルイだった。此処はルイの実家なんだし、ルイが化けて出たっておかしくないだろう。確か、こんな感じの声だった気がする──小さな写真を通じて思い出した記憶を糧に行った、嘘のような大博打。互いの形貌が知れない暗がり故に成立したこの喜劇は吸血鬼に甘美な夢を見せた。
「──ルイ!!」
「『何だよ、うるせぇな!さっき夜になったばっかだろ?今着替えてんだよ。俺が良いって言うまで開けんじゃねえぞ』」
「……そうか。悪かった。君の望みならいつまでも待とう」セヴォンはその芝居がかった話し方を知っていた。「『……お前、もしかしてデュロアか?』」
「デュロア……?」ドアの向こうで言葉が続く。「ああ、そう、そうだ。私はデュロア。“あのヴァルデックの息子”じゃない。私を名前で呼んでくれるのは君だけだ、ルイ。やはり、君はルイなのだな──君の家を毎晩綺麗に整えていれば、いつか君が帰ってくるんじゃないかと思って……君が非業の吸血鬼であろうと、私の幻惑であろうと構うものか。なあルイ、私……違う、今すべき事……ああ、そうだ。なあルイ、聞こえるか?私はずっと君に尋ねてみたい事があったんだ。どうか答えてくれ──あの留学は、君の意志だったのか?」
「『……は?』」
「──ずっと不思議だったんだ。何故、一条家の嫡子である君が家の教育を受けないのか。何故、ピエトラ貴族の君がジュヴァンの高等学校なんかでモノを学ぶのか。君の家は我がヴァルデック家に負けず劣らずの家庭教師を大勢抱えていただろう。一人しかいない剣術師範を取り合って、まとめて怒られるのが『いつもの流れ』だったな。……本も取り合った。君が去った後、何度もあの本を手に取ったが驚くほどつまらない──君がいないからだ。君が酷いうわさだけになって帰ってきた時……『一条ルイが留学先の王城で天誅を謀った』と聞いた時。この国にそれを信じる者はいなかったんだ。またいつものでっちあげだろうと笑って、皆で君の伝記に『異国で大活躍』と書き足した。……だが、君は手紙を返さなかった。段々と不安がりはじめた皆を見た私は馬を走らせたんだ。──君の好きなジュースとレコードを持った私が突然現れたら、君はどんな顔をするだろう?とか、君は噂の新興国で何を見聞きして、何を感じているのだろう?とか考えながら向かっていた。そうして、この目で直接、君の処刑を……」
青年はそこまで話すと嗚咽を漏らしはじめた。
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