原告 | ██████████

「──君はもう次の舟で国へ帰ってくれ」


 遠乗りから帰ってすぐの事。青年は内羽根の先の方についた土くれを払うよりも先にそう零した。


「さっき遊んだ川の畔にハンノキが生えていただろう?あの根元から、ときどき密出国用の小舟が出ているんだ。本来なら取り締まるべきなんだろうが、無理に引き留めた所為で死なせてしまっては意味がないからな……元手が不安ならこのブローチを売ると良い。──黄水晶シトリンだ。きっと高く付く。質に入れておいてくれれば勝手に買い戻しておくから……」


「──違うでしょう?……どうして急に?さっきまで一緒に鷹を狩ってたのに」


「どうして急に、か。君はいつだって難しい事を私に問うんだな」青年は渡すと言ったブローチを未練がましく握りながら続けた。「……何、簡単な事だよ。今晩、この辺りに吸血鬼が出るんだ。此処にいては危険なんだ。さあ、分かったら早く荷物を……」


「……嘘が下手ですね。すごく下手だ」

「嘘じゃない。事実だ」

「なら、僕の目を見て話したらどうなんですか?最後にお顔を見せてください。急にお別れだんて、貴方も寂しいでしょう?」


「……」

「デュロア卿?」

「──君も私を名前で呼ぶのか」


 青年は自らの愚かさに呆れるような笑みを零すと、何とも形容し難いおかしな表情でセヴォンを振り返った。失意の底で必死に笑っているようでもあり、別れを惜しんで泣き出しそうでもある躑躅色の瞳は確かに眩んでいる。という言葉は、今、この瞬間の為だけに作られた言葉ではないだろうか?


 その両眼は、思わずその様に勘繰ってしまうほどひどく雄弁だった。


  ◆


「……誰だ」


 深更。

 青年は扉を少しだけ開けて問いただした。


「セヴォンです。身支度をしている時に卿の私物が混ざってしまったみたいで、お返しに……」

「なぜ戻った?」

「……?卿の私物を──」


 青年は客人が言葉を述べ終えるよりも前に勢い良く扉を開け放つと、客人の肩を乱暴に摑んでそのまま打ち付けた。何の前触れもなく受けた激痛がひた走って悲鳴をあげる背中と頭を覆い潰すように囲って尚も言葉を浴びせる。


「──


 その怒声には客人の身を案ずる気配などさらさら無く。青年は客人が抱えている永久とわに癒えない古傷──彼が彼の父親に付けられた深い恐怖と生理的嫌悪の傷口が開いてしまったのにも気付かずにそのまま怒鳴り続けた。どうしてそんなに怒るの?何があったの?どうして夜に会う貴方はいつも恐ろしいの?──客人はそう問いたくて堪らなかったが、になった脳の中にはそんな余裕も残っていなかった。


「かみ、か。紙、ぼく、紙、紙。、ごめんなさい、を、あ、ぼく、僕、あ、あな、た。紙、」青年は差し出された紙を奪い取って一瞥する。「なんだこれは?書状か?請願書のようにも見えるぞ。……ジュヴァン語じゃないか。おい、何を這いつくばっている?早く読み上げろ──違う、其処でだ!!其処に座れ!!早く!!」


 青年の大声で窓硝子が軋む。客人は唾と涙で喉をめちゃくちゃにしながら何とかに一枚の訴状を読み上げた。客人が訴状を読み終える頃、青年はだんだんと正気に戻りつつあった。


が──」青年は絶句した。「私が、だと?何故だ?この騒動の解決に最も尽力したのは私と私の仲間達の筈だぞ……?もう答弁書が間に合わないじゃないか。何てことをしてくれてんだ……!いや、君を責めたって仕方がない。今すぐ母上の弁護団を──ああ、全く。何処の誰だ?こんな訴えを起こした奴は……!」

「お、お母様の弁護団は借りられないかと……」

「気味の悪い事を言うな。お前に私達の何が分かる?」

「で、でも、だって、この裁判の原告は──」


  ◆


「…………」


 今度は青年が身悶えする番だった。

 青年は先程までの憤懣ふんまんをすっかり忘れてずっと黙り込んでいた。不意に立ち上がって部屋中をぐるぐると巡ったり、セヴォンを座らせた椅子の向かいに腰を下ろして指を組んだり解いたりしていた。目の前に広がる事実を受け入れようと。或いは、何かを払拭しようと努めているのか、自分の名前を祈りの文句のようにブツブツと唱えながら目をギョロギョロしていた。青年があまりにも長いこと動揺するものだから、あれだけ泣いていたセヴォンはすっかり冷静になってしまった。ルイが視えない人から見た自分もこんな感じなのかな──なんて思いながら呑気に構えていた。


「原告は貴方の母親です」


 とは当にこの事。

 たった十六文字で化物を討った快感は特にない。

 青年は化物ではないからだ。


 セヴォンは、【各家領内連続殺人何某の容疑者──その残忍極まりない手口から『吸血鬼』と蔑まれている者の名がデュロア・フォン・ヴァルデックである】という事と【得体の知れない自分を邸へ招き入れ、不味いスープを自信満々に振る舞い、大輪の花のように笑い、水泡に触れたくてケトルに指を突っ込むような青年がデュロア・フォン・ヴァルデックその人である】という事実は両立する事象であるととっくに気が付いていた。──なのだ。彼は子猫の一匹だって殺めていない。


 ──自分が弁護を引き受ける。

 これ以上の恩返しがあるだろうか?いや、ない。ないのだが……


(……でも、僕は異国の人間だ)


 セヴォンには青年は吸血鬼などではないと語り尽くせるだけの思い出と熱量があったが、それを振るう権利がなかった。この国の人々と多少の面識があれば良かったのだが、自分には全く以ってそれがない。突然しゃしゃり出てきた謎の外国人が無罪を叫んだところで何になるのだろう。逆に怪しい。自分が裁判所で闘っても青年を不利にするだけだ。──

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