第17話 忘れられた国
小さな島での出国手続きは、夏帆が想像していたよりもずっとあっさりと終わった。
無愛想というよりも人形のような管理官がパスポートに判子を押す。本当にそれだけで、書類にサインをしたり目的を聞かれたりすることもなかった。
ものの三〇分ほどで再び機上の人となると、あとは到着まで夏帆が出来ることは何も無かった。
到着まではしばらくかかるので、寝ていてもいいと言われたのは飛行場から飛び立ってすぐのことだった。
すっかりと日の暮れた空に、そこだけ夜を切り抜いたように月が浮かんでいる。
雲も無いのでまるで現実感がない。何をするでもなく、夜の空を眺めているうちにストンと眠りに落ちていた。
小さな夏帆と少し年長の少女が向かい合っている。夏帆によく似た少女がじっと夏帆を見つめている。少女の身体が何の前触れも無く、内側から裂けた。まるでサナギが殻を破るように、少女の中から裸の少女が姿を現す。
黒真珠を溶かしたような艶やかな黒い髪。紫水晶の瞳はどこか罪悪感を抱えたような色を宿している。
その少女の姿さえも、闇に紛れて見えなくなる。ただ一人、闇の中で夏帆は何も出来ずに立ち尽くしていた。泣くことさえも出来ず、ただ立ち尽くす。言いしれぬ喪失感だけがある。
「……夏帆、起きて。夏帆」
声ではなく、揺さぶられる身体の感覚で目が覚めた。
目の前に少し不安げなアリエルの顔がある。目頭が意味も無く熱い。そっと指で拭うと、頬が濡れていることに気がついた。
「あ、あれ?」
いつの間にか眠っていたということはわかるけど、なぜ泣いているのかがわからない。
ただ、無性に寂しくて人恋しかった。差し出されたアリエルの手の温もりがただひたすらに嬉しい。
「うなされてたから、心配した。やっぱり、怖かった?」
「ううん。わからない。全然、覚えてないや」
意識がはっきりしてくると、ぼやけていた周囲の様子がはっきりと見えてくる。
暗い機内の中で、操縦席の液晶画面がくっきりと見える。窓の外にはさっきよりも天頂に近づいた月が機内を青く照らしだしている。
「着いたの?」
「もうすぐ、領域に入る。思ったより
アリエルの代わりに真城がそう答えた。
「
「忘れられた国の入口さ。あと、二分ほどだな。アリエル、道案内頼む」
「了解、教官」
アリエルの手がまるで幻に触れたかのように、液晶のディスプレイに溶け込んだ。
初めて出会った朝のように。アリエルから色が抜け落ちていく。
透明な、まるでこの場にいるけどいないような、不思議な存在感。
それと入れ替わるように青い夜の色が鮮やかな緑へと変わっていく。
自分の目がおかしくなったような気がして、夏帆は目をしばたいた。
緑の空にまるでジェットコースターのようなラインが絡み合っている。
「……これって」
「妖精の目ってやつだ――また、今日は難儀だな」
「一番ラクなのは、この道」
アリエルが言うのと同時に、なだらかなラインがオレンジ色に染まる。
まっすぐに伸びた線が小さく盛り上がり、少し下がった後に急上昇。そのまま天頂へと吸い込まれている。
「ほとんど垂直上昇じゃないか。他には?」
「VLJぐらいじゃ、無理なルートしかないよ」
アリエルが言い終わるよりも早く、黄色いラインが数本現れる。
あるラインは複雑な螺旋を描き、別のラインは幾度も宙返りをするように上昇と下降を繰り返していた。
「仕方ないな。夏目ちゃん、しっかりベルトを締めておいてくれ」
「は、はい」
具体的なことはわからないけど、あの線に沿って飛ぶのだということぐらいは簡単に想像がつく。
一度、山なりにゆったりと上にあがったあとで急降下。そのあと、間髪入れずに真っ直ぐに天を目指す。そんな飛び方になるはずだ。
「準備は?」
「だ、大丈夫ですっ」
「よし、行くぞ」
真城の声と共にぐっと背中が座席に押しつけられた。
上を向いたと思ううちに身体がふわりと浮き上がる感覚。エレベータの下りをもっと強烈にしたように首筋がぞわぞわする。
「さ、がんばって上ってくれよ」
再び上昇。今度は最初とは比べものにならない重みで座席に押しつけられる。ただ、我慢出来ないほどのことではない。
「夏帆、大丈夫?」
同じように加重がかかっているはずなのに、アリエルの声はいつもと変わらない。
まるでそこだけ無重力だとでもいうかのように、アリエルの銀色の髪がゆったりとたゆっている。
「平気。これぐらいなら、なんてことない」
平気な顔のアリエルに対抗して、少し強がってみせる。
上昇を続けるにつれて、窓の外がどんどん明るい緑へと染まっていく。
眩しいほどに明るくなった光が爆発したと思ったとたん、唐突に機内は平静を取り戻した。
眩しさに閉じていた目をゆっくりと開けると、黒いアリエルの髪が真っ先に見えた。
窓の外は明るいままだが、さっきまでのようなどぎついまでの眩しさはない。
ゆっくりと体重がいつもの感覚に戻っていくのを感じる。水平線の一点はほんのりと茜色に染まり、そこから伸びた光が天と地を分けている。
「夏目ちゃん、お疲れ様。気分は悪くないか?」
「ちょっと疲れたけど、大丈夫です」
外の景色に見惚れながら、夏帆は答えた。少し気持ち悪かったけど、すぐにそれも綺麗さっぱり消え去っていた。
そんなことよりも、今は明けていく空を見ていたい。
「アリエルもご苦労さん。予定より、かなり早くこっちに脱けたみたいだな。ざっと10時間程度の時差か」
「今、大八洲管制塔のDEM局を捉まえた。FMSを再入力」
アリエルの指が、今度は液晶ディスプレイと溶け合うことなく、ちゃんと指先でタッチパネルをリズミカルにタップしていく。
「予定より50 kmほど海側に流されてるな」
「ちゃんと妖精の道に乗らないから」
「次からは気を付けるようにしよう」
徐々に明るくなっていく室内で、真城とアリエルが軽口を叩きながら飛行機を操っている。
窓から見る外の景色はどんどん明るさを増し、朝靄に煙っている小さな島が少しづつ大きくなってくる。
何か違和感を感じるが、上手く考えが纏まらない。
「八島訓練所管制塔、こちらギリー1」
『こちら、八島訓練所管制塔。思ったより早かったですね、真城教官』
ヘッドセットからまだ若そうな男の人の声が聞こえてきた。真城と似たような訛りの日本語に少し驚く。てっきり外国の空港だと思っていたのに。
「なんせ、アリエルのエスコートだからな。まあ、少し流されたが」
『腕が落ちてるんじゃないですか』
「こんな小さいVLJで妖精の道を通ってるんだ。流されない方がどうかしてる。現在、三〇〇ノットで方位〇度に向かって飛行中。着陸許可を求む」
『了解しました。いつものように三六番から着陸して下さい。今は近くを誰も飛んでませんから、そちらのタイミングでどうぞ』
「了解。朝飯には間に合いそうだ。三人分頼む」
『三人前ですね。何て名前でしたっけ』
無線の向こう側に、アリエルが自慢げに夏帆の名前を告げた。
『夏目夏帆さん、ですね。アリエル、久しぶり』
「ん。ミーム先生は?」
『もうそろそろ、起きてくるんじゃないかな』
いくつかの単語が頭の中で組み合わさり、夏帆はやっと感じていた違和感の正体に気がついた。座席のポケットに入れておいた携帯電話を取りだして、時間を確かめる。
「……21時35分って、まだ夜じゃない」
狐に化かされたような気分でもう一度外を見る。どう見ても、夜には見えない。
「アリエル、これって……」
「ん。もうすぐ、着くよ。お疲れ様、夏帆」
みるみる近づく滑走路を呆然と見つめながら、夏帆は着陸に備えた。広い割にガランとした空港には他に飛行機の姿は見えない。
静かなショックが地面に到達したことを夏帆に教える。そのまま、自動車のように滑走路から大きな格納庫まで自走して、ようやく飛行機は停止した。
「さ、着いた。ようこそ、忘れられた国へ。夏目ちゃん」
空のアリエル 長靴を嗅いだ猫 @nemurineko
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