第16話 空

 夏帆を構っていたアリエルが、真城の声で自分の座席にきっちりと座り直した。

 ヘッドセット越しに鈍い振動や空気を奮わせる音が伝わってきた。膝の上で握りしめた手がじっとりと汗ばんでくる。

 ゆっくりと小さな飛行機が前に進み始める。視界が低いので、本当に自動車に乗っているような錯覚を覚えた。滑走路よりも細い誘導路を滑るように進んでいく。

 なぜか、操縦している真城ではなくアリエルがアームレストの上に乗っている操縦桿やペダルを動かしている。


「ああやって、ちゃんと舵が効くかどうかなんかの最終チェックをしてるんだ。副操縦士の仕事の一つだな」


 夏帆の不思議そうな顔に気がついたのか、真城が前を見たまま説明してくれた。


「あの、アリエルって飛行機を運転出来るんですか?」


 真城が操縦中だということも忘れて、夏帆は思わず疑問を口にした。真城はそれを無視したりせずに、ちゃんと丁寧に教えてくれる。


「まあな。なんせ、風の精霊だからな。精霊機になれば、俺なんかよりも数段速いし高く飛べる」


 風の精霊。精霊機。


 この人も知っているんだ。アリエルの秘密を。思わず、ぐっと拳に力が籠もる。


「離陸準備完了」


 いつの間にか、真っ直ぐな滑走路が目の前に広がっていた。知らない声でテイクオフという声が聞こえてくる。

 エンジンの音が大きくなり、ぐっと前が沈み込む。

 ふっと身体が軽くなったと思ったら、今度は身体が座席に押しつけられる。

 前を向いていればそれほど速度が出ていないように思えるが、横の窓から外を見ればそれがとんでもない勘違いだとよくわかる。


「V1……VR」


 轟音とタイヤが路面を蹴飛ばすノイズが混じり合い、騒音としか言いようの無い音がヘッドセットを通して聞こえてくる。

 たしかに普通に会話なんて出来そうに無い。


「V2」


 ふっと身体にかかる力が下向きになる。溶けるようにノイズが消えて、心なしかエンジンの音も小さくなった気がする。

 さっきまで見えていた滑走路がもう見えない。


「ギア・アップ」


 アリエルの声に続いて、コンという微かな振動。横の窓は斜めに傾いた水平線が見えている。

 前は一面の雲。


「一度、雲の上に出る」

「了解」


 短いやり取りが続いて、周囲が霧に包まれたような感じになってくる。よく目をこらすと濃い煙のような中にいることがわかった。


「夏目ちゃん、これが雲の中だ。どんな気分だ?」


 耳元から真城の声が聞こえてくる。


「えっと、アリエルの煙草の煙に顔を突っ込んだみたいな感じです」

「なるほどね。なかなか、いい表現だ。さ、じきに雲の上に出る。眩しいから、気をつけろよ」


 笑いながら、真城が夏帆に注意を促した。


「夏帆、あと10秒」


 続けて、アリエルの声。気のせいか、ちょっと怒っているような気がする。

 心の中で数を数え始める。外が明るくなってきたと思ったら、いきなり目の前が透明になったような錯覚を覚えた。


「え?」


 思わず窓の外を見る。遠くの彼方は白く煙ったような真っ白な線。そして、その上はただ青だけがあった。


「凄い……」


 窓にへばりつくようにして、下をみる。綿のような雲が傾いた太陽の光に照らされて柔らかい色に輝いていた。


 昼の色から夜の色へと変わる途中の色。


 こんな不思議な色の名前を、夏帆は知らない。


「夏帆、どう?」

「綺麗」


 沖縄に来るまで乗っていたジャンボ機では、こんなに空を近くに感じることはなかった。


「怖くない?」

「全然。ちょっと物足りないくらい」


 手を伸ばせば、雲をわしづかみできそうな感じがする。

 もちろん、そんなことはないと知っているけど、それが信じられない。

 自分が飛行機になったつもりで、空をイメージする。くるりとひっくり返って雲の中に飛び込んでみたり、斜め上に宙返りしながら向きを変えたり。

 とてもワクワクする。


「あの、この飛行機って宙返りとか出来るんですか?」


 思いついて、夏帆はそう訊いてみた。とたんに前の二人が顔を見合わせる。


「あの、何か変なこと言っちゃい……ました?」


 む。やっぱり、あんなことが出来るのは映画の中だけか。


「夏目ちゃん、飛行機の経験は?」

「えっと、これで3回目です。子供の時に1回と、沖縄に来る時に1回」


 言ってみたものの、そんな2回なんて数のうちに入らないと思う。


「なら、宙返りは後にとっておこう。あまり一気に経験するともったいない」

「え?」


 まるで、まだ飛行機に乗せてくれると言わんばかりの真城の態度。


「夏帆。心配しなくても、いくらでも飛べるよ。そのために呼んだんだから」

「え? え?」


 窓に張り付いたままの姿勢で、前の二人をじっと見つめる。気のせいか、二人して何かを企んでいるようにも見える。


「アリエル、何か隠してない?」

「あとで教えてあげる」


 やっぱり、何か企んでる。


 一ヶ月ほどの共同生活で、アリエルがこう言い出したらテコでも何も言わないことはよくわかっていた。なんとなくすっきりしない感じで、また空に視線を戻す。海に出たからだろうか。

 雲の絨毯は気がつけば、ぽつんぽつんと空に浮かぶ雲のクッションに変わっていた。

 空の色よりもずっと重たい藍は海の色。小さな島が眼下を流れていくのを見たとたん、夏帆は重大なことを思い出した。


「あ、アリエル!」

「ん? トイレ? 悪いけど、もうちょっと我慢して」

「違うっ。そうじゃなくて、パスポート! わたし、空港の人に見せてないよ!」


 静香にいろいろ教わりながら取得したパスポート。

 よくよく考えて見れば、一度もバッグから出した記憶がない。

 わざわざ、祖母に頼んで書類にサインまでもらったのに。

 一人で青ざめていると、やたらと楽しそうに真城が夏帆とアリエルの会話に割り込んで来た。


「夏目ちゃん、出国手続きはまだもうちょっと後だ」

「後?」

「あと20分ぐらい飛んで、別の島に一度降りる。そこで、給油して出国。聞いてなかったかい?」


 聞いてない。


「アリエル、説明してなかったのか?」

「ん」

「アリエル。そういうことはちゃんと説明してよ」


 安堵とそれはないよという虚脱感で、夏帆はころんと座席にまるく寝っ転がった。目を閉じると今どんな感じで飛んでいるのかがより鮮明にわかる気がする。


 しばらくその姿勢でいると、ぐんっと機体が傾いたのが身体に伝わってきた。ゆっくりとコの字を描くようにしながら高度を下げている。と思う。

 下向きの角度から想像すると、きっと着陸までもう少し。


「アリエル。ひょっとして、滑走路見えてる?」

「目がいいんだな。夏目ちゃんは」


 アリエルの代わりに真城が答えた。


「あと少しだ。念のために、ちゃんとベルト付けてくれるかい?」

「はい」


 言われたとおりに身体を起こして、シートベルトを整える。ついでに髪の毛や服を整えてみる。暗い空の向こうにまっすぐな光の列が瞬いているのが見えた。なんとなく、身体がそわそわする。


 夏帆は前に座っているアリエルに、そっと顔を近づけた。


「アリエル」

「ん? 夏帆、パスポートならまだしばらくは――」

「そうじゃなくて、その、あの……この島にお手洗いあるよね?」


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