第15話 アリエルの国の人

 初めての海外旅行は、想像していたよりもずっと強行軍になった。


 家に帰るなり、タクシーで空港に直行して沖縄行きの飛行機に乗り込む。

 沖縄についたのは夕方少し前で、ここからさらにチャーター機で出国するということになるらしい。

 出国手続きなどは、その時にすると思うのだけど、なにしろ初めてのことなのでよくわからない。


「アリエル、これからどうするの?」

「ん。真城教官が迎えに来てくれるはずだけど。ちょっと電話してみようか」


 一方のアリエルは落ち着いたもので、自販機で買ったコーヒーを飲みながら窓の外を眺めている。

 例によって、荷物らしい荷物は何も持っていない。


 真城という人が、夏帆とアリエルを運んでくれるパイロットらしかった。教官というからには何かの先生なのだと思うけど、アリエルに聞いてもすぐにわかるの一点ばりでちっとも教えてくれない。


「うん。そう、もう着いてるけど……スロット?  止まらないから、もう少しかかる?  わかった。夏帆と一緒に簡単な食事でも済ませとく」


 先生が相手というわりには、ずいぶんとざっくばらんな話しぶりだ。

 よほど親しい間柄なのだろうか。

 む、もしや……などという怪しからん想像が頭をよぎるけど、ブンブンと振り払う。


「夏帆、スロットって知ってる?  手が離せないって言ってるんだけど」

「スロット? パチンコかな」

「先に食事を済ませとけって。着くのは夜中になるから」

「そういや、お昼ご飯まだだったね」


 とにかく、飛行機に乗ることしか考えて無かったので食事のことなんて頭からすっとんでいた。

 さすがに大きな空港だけに、食事をする場所には困らない。

 せっかくだから、沖縄料理なんかも食べてみたいし、しばらく日本を離れることを考えるとオーソドックスな日本料理も悪くないと思う。


「何がいいかな」

「あそこにしようよ」


 そう言ってアリエルが指さしたのは、日本全国どこでも見ることの出来るハンバーガーショップだった。


「あの、ちゃんとした食事がいいかなって思うんだけど」

「沖縄限定バーガーだって。これは食べるしかないって。それに、ちゃんとした食事をしてる時間なんて無いよ」


 瞳を輝かせながらアリエルが、夏帆をハンバーガーショップへと引きずっていく。


「白いごはん~」


 そんな夏帆の叫びも空しく、最初の食事は沖縄限定野菜バーガーセットになった。お値段六八〇円也。悔しいことに、野菜バーガーはとんでもなく美味しかった。


「はじめまして」


 そう言って、手を差し出してきた人は想像していたのとは随分と印象の違う人だった。

 教官と言うぐらいだから、もっと厳めしい学校の先生のような人だと思っていたのだけど。

 顔の半分以上が髭に覆われた顔は少し怖いけれど、目元はとても優しげだ。

 真城という名前から日本人だろうと思っていたけれど、少し変わった訛りがある。

 まだ、アリエルの方がずっと普通のイントネーションなのがちょっとだけ面白い。


「いや、待たせてすまなかった。こっちに来るのは久しぶりだったからね。すっかり嵌ってしまった」

「教官。彼女が――」


 いきなりぐいっとアリエルに抱き寄せられる。

 思わずよろけて、アリエルに抱きつくような感じになってしまった。


「夏目夏帆。ほっぺたがとても魅力的なんだ」

「アリエルっ」


 よりによって、男の人の前でそのことを言っちゃうんだ。さすがにそれは切ないぞ。

 真城がアリエルの話を聞いて、目を丸くする。


「うう。アリエルのばか」

「いいじゃないか。可愛いんだからさ」


 どんどんワールドワイドになっていく自分のほっぺたが恨めしい。


「驚いたな」


 驚かれた。もうダメ。泣きたい。


「うう。わたしって、そんなに丸顔に見えます?」

「ん? いや、そうじゃない。驚いたのはアリエルのことだよ。君のことじゃない。それに、女性の肌は柔らかい方がずっと魅力的だ。なんといっても、触り心地が違う。気にすることは無い」

「触り心地?」


 その言葉に警戒心がむくむくと頭をもたげる。


「大切なことだぞ? 君も、もう少ししたらわかるようになる」

「教官。セクハラって言葉、ミーム先生から聞いてないか?」

「愛情表現だよ。アリエルも学んだ方がいい。たぶん、人生で一番大切なことだぞ?」


 おどけたように手を広げると、いきなりパンっと強くたたき合わせた。


「さ。ふざけてないで、そろそろ出発するとしよう。二人ともついておいで」


 何となく煙に巻かれた気分で、夏帆はアリエルと並んで真城について歩き始めた。ロビーから一度表に出て、外を歩く。すでに梅雨に入っている沖縄の空は曇り空で、今にも降り出しそうな天気だった。


「ちょっと、変わった人だね」


 少し前を歩く真城の背中を見ながら、夏帆は小さな声でアリエルにささやいた。


「夏帆、怒ってる?」

「気にしてない。いや、別の意味でちょっと気にしてるけど」


 あのセクハラ寸前のトークが冗談だということは、もちろん理解している。

 問題は一二〇%冗談で、本気が欠片も混じっていないということだった。

 さすがにここまで子供扱いされると、別の意味で気になる。


「もうちょっと、本気成分入っててもいいのに」

「夏帆、それ絶対に教官の前で言わないように。襲われるから」


 真面目ぶったアリエルの態度に思わず笑い声が出る。二人して笑っていると、怪訝そうに夏帆の荷物を抱えた真城がちらりと振り向いた。


「ほらほら。遊んでないで」


 まるで引率の先生みたいな口調で、真城が二人を急がせる。

 翼の生えた鯨のようなジャンボジェットを横目に見ながら、ぐるっと大回りしてもっと小さな飛行機が駐機してある場所までテクテクと歩く。

 かなり歩いたところで、真城が一際小さな飛行機を指さした。


「あれだ。可愛いだろ?」

「え? あれ?」


 確かに翼はあるが、思っていたよりもずっと小さい。ジャンボが鯨としたら、これは本当にメダカサイズだ。


「ん。ストラトスにしたんだ。てっきり、エクリプスだと思ってた」

「こっちの方が航続距離に余裕があるし、速度も出るしな」


 アリエルと話ながら、真城が後部のパネルを開いて荷物を手際よく収納していく。その間に夏帆は少し離れて、小さな飛行機をしげしげと見つめた。

 ハッチバックの車を縦列に二台並べたぐらいの胴体の下に翼がついている。

 プロペラは無く、代わりに翼の根本にジェット機のような空洞があった。

 高さはアリエルの背よりも頭二つ大きいぐらい。こんなに小さな飛行機が本当に空を飛ぶのかと思うと、ちょっと信じられない。


「夏帆、乗っててもいいよ」


 機体をぐるっと一周していたアリエルが、夏帆の背中をポンと叩いた。

 新幹線のような流線型の胴体がぱっくりと開いている。おそるおそる中を覗くと、本当に自動車そっくりの座席レイアウトになっていた。

 前後部四席の座席のうち、前は操縦席。お客さんとして乗れるのは二人だけということになる。


「えっと、後の席でいいんですよね?」


 ベージュ色で統一された機内の座席におっかなびっくり腰を下ろす。

 すぐ隣にある丸い窓から外を見ると、真城が飛行機を点検しているところだった。アリエルはというと、前の座席でぶつぶつと呟きながらファイルにチェック印を付けている。


「アリエル、何してるの?」

「ん? 飛行前点検。足りないモノが無いかとか、ちゃんと機器が動くかとか。一度、飛ぶとちょっと脇に停まってなんて出来ないからね」

「へー。大変なんだ」


 慣れた感じで、アリエルが操縦席の液晶画面のスイッチをチェックしていく。

 夏帆の位置から見えている操縦席はとてもシンプルで、映画で見たようなメーターやスィッチ類はほとんど見あたらない。

 どちらかというと、ゲームセンターのような印象に近かった。


「パーキング・チェック。QNH・OK……」


 聞き慣れない単語の中に、ときおり理解出来る英語が混じってくる。

 ブレーキがちゃんとかかっているかとか、ペダルや操縦桿が間違いなく動くかとか、そんなことをきっちりと声に出して点検していっているらしい。


 しばらしくして、機外点検を終えた真城が操縦席に潜り込んでくる。何しろ、小さい飛行機なので操縦席もそれなりに狭い。


「アリエル?」

「各部異常なし。FMS入力完了」

「了解。アリエル、夏目ちゃんにヘッドセットの使い方を。こっちは離陸許可をとる」

「了解。夏帆、座席の脇に置いてあるヘッドセットを付けて。ジャックはアームレストのすぐ下にあるから」


 座席の脇からごついヘッドセットを取り出して、頭にセットしてみる。かなり大きめのヘッドセットなので思うように位置が定まらない。


「ここで、フィッティング出来るから」

 アリエルが前の座席から身を乗り出して、夏帆にヘッドセットを合わせてくれた。アリエルの長い髪がくすぐったい。

 言われた通りにジャックを差し込むと、ちりっとしたノイズの後にアリエルの声がすぐ耳元から聞こえてきた。


「飛行中の会話はこれでするから。あと、シートベルト。これはわかるよね?」


 アリエルの指示に従って、夏帆も準備を少しづつ整えていく。そのあいだにも真城の英語のやりとりが聞こえてくる。

 ときどき笑い声が混じるところを見ると冗談でも言っているのかもしれない。


「よし、じゃあ行くぞ」

「了解」


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