最終話 手紙

 冷たい。床も、壁も、食べ物も。留置所は全てが冷たく感じられた。

 平等バンドは六十を示していた。きっとこれから、四十に値する喜びが舞い込んでくるのだろう。その四十が、今の僕の感情を晴らすのに値するのかが疑問だったが、それでも喜びが必ずやってくると保障されているというのは、気休め程度に安心できた。

「四五七四。面会だ」

 僕は重い頭を上げた。人と話せるのが嬉しいような、億劫なような。ただそれよりも、一体誰なのだろうという疑問の方が大きく、僕は面会に応じる気になれた。

「どうも。シンドウです」

 僕は溜息を吐いた。シンドウ。僕は彼のせいでこうなったと言っても過言ではなかろうか。

「シンドウ。お前、よく俺の前に顔を出せたな」

 そう言ったところで、僕は目の前にいるのが本当のシンドウではないことに気が付いた。

「お気づきですか。本物のシンドウがここに来たら逮捕されてしまいますからね。なので、私はこの者を遣いとしてよこしたのです」

 自らをシンドウと名乗った男は、自分の胸に手を当て、言った。まるで台本を読んでいるかのようなその口調は、かつての扇動者としての風格を一切感じさせてはくれなかった。

「本日はあなたの『喜び』と持ってきた、ということになりましょう」

 男がシンドウの言葉を話す。

「……喜び?」

「はい。私も気が進みませんでしたが、しかしながら今の貴方を思うとやはり伝えるべきかと」

 僕は男の顔を見た。シンドウの顔を重ねる。

「単刀直入に言いますと、貴方が殺した二人、どちらも殺されて然るべき人間だったのです」

 男は「殺されて然るべき?」と聞き返す僕の顔を真っ直ぐに見て、微動だにせず話を続ける。

「まず、警察官。彼は数年前、とある事件を追っている途中で、何の関係もない一般人を殺してしまいました。しかし、警視庁がそれを隠蔽。彼は一切罪に問われなかった。そして、次に貴方が殺してしまった若い男。彼は所謂DV男で、自らの妻と子供に暴力を働いていたそうです。子供に至っては何日も食事を与えていなかったり、押し入れに閉じ込めたりと……まぁ酷い……父親と呼ぶのも憚られる父親だったというわけです」

 男はシンドウが用意したであろうセリフを一切噛むことなく言い切った。僕が間に入る隙も無く。

「……それは……確かに殺されて然るべき……と考えてもいいかもしれないが」

 だが、それはそれとして、僕が殺していい理由になるのかという話だ。難しい問いである。いや、普通に考えてダメだろう。僕が殺人を犯した事実に変わりはないのだから。

 ただ。

 僕の心が軽くなったのもまた、紛れもない事実であった。

 悔しいが、僕の平等バンドは九十八を指していた。

「それでは」

 男はそう言うと、下を向いて俯く僕を置いて面会室から出て行った。



 僕の裁判は三日後だ。人を二人も殺したのだから、無期懲役……最悪、死刑となるだろうか。そんな不安で頭がおかしくなりそうだった。

 死にたくはない。だって子供が生まれたばかりだし、家で麗奈が待っている。そうだ。確か弁護士が言っていた。殺人罪でも最も軽い刑ならば、懲役五年で済む、と。

 五年.それくらいの年月なら、きっと麗奈も子供も待ってくれるだろう。名前だって付けてやってない。そうだ。五年……五年待てばいいだけ……。

「そうだ」

 僕はふと思い出した。今朝、手紙を貰ったのだ。差出人はよく見ていなかったが、きっと麗奈からだろう。

 急いで手紙を囚人服のポケットから取り出し、差出人を確認する。

 依岡麗奈。

 そうはっきりと書かれているのを、僕の目はしっかりと捉えた。僕は早く見たいという思いを抑えて、紙が破れないよう、丁寧に封を開いた。

 僕は麗奈からの手紙をゆっくりと読み始めた。


依岡よりおか佳樹よしき  様

 

  麗奈です。元気にしていますか。

  私は、元気です。

  

  あなたがいなくなって、私の平等バンドの数値は一気にに下がっていきました。これ以上の悲しみはないというくらいに。それも今では百に近い数値に戻りました。あなたが捕まったという「悲しみ」の代わりに、「喜び」がやってきたからです。

 

  私は、新しい愛すべき人を見つけました。

  私は、その人と幸せになります。

  私は、人殺しとは幸せにはなれません。

 

  離婚しましょう。

  あなたが父親では、あの子も可哀想だとは思いませんか。あの子の為にも、離婚した方がいいと思います。今までありがとうございました。

  離婚届とあなたの印鑑、そして筆記具を同封しておきます。名前を書いて、送り返してください。私が役所に提出しておきます。

  さようなら。


何も言えなかった。僕は、ただただその文章を何度も、何度も読み返すことしかできなかった。

離婚。

その言葉を見る度に、胸が痛く締め付けられた。心臓を手で握りつぶされているような、そんな痛みだ。だが、「あの子の為にも」という文章を見ると、それ以上の痛みが心臓を襲った。心臓を槍で一突きにされたような、そんな痛みだった。

やっとその手紙の意味を頭が理解できるようになってからは、もう涙が止まらなくなっていた。大粒の雫が手紙を濡らし、ボールペンで書かれた文字を滲ませた。

封筒に入っているもう一枚の紙を取り出す。

そのとき、何かが落ちる音がした。

「印鑑、か」

 僕はその印鑑を拾い上げ、見つめた。麗奈と同じ姓になれることが、どんなに嬉しかったか。そして、子供にも同じ姓が授けられることが、どんなに誇らしかったか。

 今となっては全て無い。

 麗奈の言うことは全て正しい。

 僕は人殺しだ。そんなレッテルが一生貼り続けられている以上、二人を幸せにすることなど、到底できない。

 僕は拳を力一杯に握った。

 映画なんかでよく見る、握った拳から血が出る、だなんてことは一切なかった。ただただ、握りすぎて痛んだ手で、僕は離婚届を記入した。

 僕の平等バンドの数値が、十になった。



 三日後。僕の刑が決まった。

 死刑。

 でもなければ、

 無期懲役。

 でもなかった。

 懲役十年。僕は十年間、刑務所に閉じ込められるというわけか。死なずに済んで安心してはいる。いるが。

 僕の平等バンドの数値は百を示していた。

 何が百だ。

 もう、このバンドは壊れてしまっている。

 だって、愛する人を、愛する家族を失った僕の心を埋め合わせることができる「喜び」など、どこにも存在しないのだから。

 このバンドは、そういう、「喪失」に対応していない。その「喪失」は、僕の心を失くすのに十分に、値していた。

 心が、無くなってしまった僕には「喜び」も「悲しみ」も無い。

 もしかしたら、出所した後、新しい出会いがあるかもしれない。新しい人生を歩めるかもしれない。人を殺したというレッテルを背負い続けたとしても。愛した人の影が背後霊みたいにチラついていたとしても。だが。

 心が無くなった今の僕は、希望なんていとも容易く投げ捨てることができる。



 懲役十年が決まった依岡佳樹受刑者は、その三日後、獄中自殺をして安らかに逝った。


                                   ――終

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喜びの代わりに悲しみを。悲しみの代わりに喜びを。 水村ヨクト @zzz_0522

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