第3話 デモ、そして暴力。

 人の渦だ。

 僕は国会議事堂の目の前の光景を見て、率直にそう思った。あれから一週間。間違いなくその活動を執り行われていた。

 絶叫。

 雄叫び。

 ガラスの割れる音。

 鈍い金属音。

 怒号。むせび泣く声。

 サイレンの音。

 これはまさしく――

「――デモだ」

 僕はそう呟いた。

 数々の轟音が入り乱れ響き渡っていたが、彼らのシュプレヒコールは統一しており、はっきりと聞こえた。

 平等を取り戻せ。

 デモの中心には、トラックの荷台に乗って人々を扇動するシンドウの姿があった。拡声器で音が割れるギリギリの声を、シンドウは鋭い眼光で発していた。

「この国は間違った方へ進んでいる。我々はそれを正さなければならない。壊れたものは直さなければならない。

 この平等バンド。これには大きな欠点がある。それは、どんな喜びでも埋め合わせることのできない悲しみがあるということを考慮していないという欠点だ。人生には拭い切れない悲しみが少なからず存在する。それを帳消しにできる喜びなどないほどに。それにこのバンドは対応していない。いや、対応してはならない。拭ってはいけない悲しみもあるのだ。

 人は少なからず後悔を背負って生きる。その義務を放棄してはいけない。一度背負った悲しみは、背負ったまま喜びを掴みに行かなければダメなんだ」

 シンドウは国会議事堂に向かって叫んだ。

「喜びと悲しみは引き換えじゃなかったはずだ。なぜなら、喜びは努力によって事を成し遂げた先に得られるものなのだから。悲しみが喜びを生むわけではない。悲しみは、喜びをただ増幅させるだけのものだ。私たちはただ比較しているだけなのだ。

 この国のやり方は、我々の努力を無視している。喜びを掴み取るための努力を。平等だなんて嘘だ。必死に努力した者が得た喜びと、自業自得で人生転落した者がその悲しみと引き換えに得た喜びが平等であってたまるか。そして、必死に努力した者が悲しみを被るなどあってたまるか。我々は動くべきだ。叫ぶべきだ。国を改心させるべきだ。平等を……本当の平等を取り戻せ」

 シンドウの最後の怒号で、群衆の勢いは今までで一番のものになった。

 そして、その怒号は僕にも火を点けた。

 群衆の中に走り込み、満員電車よりもごった返った人々を掻き分け、できるだけ最前線を目指す。声にならない声を上げ、人の圧力で押し潰されそうになりながら、国会議事堂の門が見えるところまでやってきた。警察官が何十人も束になって僕たちを押し返している。僕は、熱くなった顔を冷ます気もなく、一人の警察官を思い切り蹴飛ばした。人を蹴ったのは生まれて初めてだったが、思ったより手ごたえを感じた。

 その刹那だった。蹴り飛ばされた警察官が起き上がるなり真っ赤な顔をして、僕目掛けて突進してきたのだ。僕の腹部を捉えた彼の突進は、僕を勢いよく倒れ込ませるのに十分な威力だった。

「この野郎」

 怒りに満ちたその声が、一体僕の声なのか、警察官の声なのか、自分でも分からなくなっていた。もしかしたら他の誰かの声かもしれない。

 僕は警察官に体を拘束されてしまった。十字固めの形で押さえつけられた僕は、必死になって空いている方の手でポケットに入っている折り畳みナイフを探した。

 手ごたえはなかった。

 僕はやっと手に取ることができたナイフで、警察官の向う脛を突き刺したつもりだった。

「ぐえぇ」

 それでも、警察官は痛みに耐えかねて十字固めを緩めた。彼の向う脛から血が流れている。突き刺すことはできなかったが、傷を与えることはできたらしい。

 そこから僕はもう、何が何だか分からなくなって、必死にナイフを振り回した。警察官の腕や脚に無数の切り傷が付いていた。僕が警察官の拘束から完全に開放されたときには、彼の身体中が傷だらけで、僕自身も血だらけになっていた。

「この犯罪者め」

 傷だらけの警察官は、僕にそう怒鳴りつけた。

 僕は興奮していた。彼のその言葉は、その興奮を最骨頂に押し上げるのに十分すぎる一言だった。

 声にならない声。

 血に塗れたナイフを僕は尻餅をついている警察官に突きつけた。

 ――ぐっ。

 そんな手応えだったろう。その直後、警察官はガクッと力を抜いた。いや、抜けたのか。傷口を中心に真っ赤な円が広がっていった。

 僕の周り五メートルくらいの人々は、怖いくらいの静けさで僕と警察官のことを見つめていた。

 カシャリ。

 沈黙を破ったには、誰かの携帯電話のシャッター音だった。

「お、おいやべぇって。人が死んだ。……殺された!」

 その携帯電話の持ち主である若い男が、興奮気味に叫んだ。それからは、絶叫の渦だった。

「いや! 血出てる!」

「やばいやばい! 写真撮ろ!」

「嘘だろ⁉ 殺人とか初めて見た!」

 恐怖の叫びの他に、抑えきれぬ好奇心が噴出したような言葉が周囲から耳に入った。入っただけで、僕にはそれがどんなに狂っていることなのかを考える余裕などは無かったのだが。

 僕は必死に叫んだ。

「違う! これはこいつがやってきたからで! ……ふーッ……ふーッ……」

 息を整えようとすればするほど、呼吸が乱れる。頭が混乱する。頭の中を泡だて器でぐちゃぐちゃにかき混ぜられたみたいで、視界が狭くなったり広くなったりした。

「おい、人殺し! 言い訳してんじゃねぇよ」

 僕の後ろで、派手な格好の男がそう叫んだのが鮮明に聞こえた。徹夜明けの朝みたいな脳の処理速度で、僕はその男の顔を探した。その顔を捉え、認識したとき、またその口が開いた。

「何とか言ってみろよ。犯罪者!」

 ぐちゃぐちゃにかき混ぜられた頭の中が、一気に沸騰する感覚を覚えた。手に力が籠る。右手に握られた折り畳みナイフがギリギリと音を立てる。

 気付けば僕は男に突進していた。胸元辺りにナイフを構え、男の胸に突き刺さるように。

 それからはもう何が何だか。僕は男をナイフで突き倒し、男の上に馬乗り状態でいたような気がする。

 騒めきはより一層強まり、野次馬の数も倍以上に増えていただろう。

 ただ、そんな中で、僕の意識は一気に冷め切り、胃から何かが逆流してくるのを感じた。

「ああ」

 僕は全てを悟った声を出し、その場に膝から崩れた。自分の吐瀉物が膝にべったりとくっつくのも構いはしなかった。ただその場で俯き、自分がした蛮行を頭の中で何度も、何度も再生していた。

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