第85話 これからもがんばります!

 試合が終わり、昼食会が終わり、皆さまを送り出してから、私は球場内にある執務室に向かった。

 ウォルター殿下は、選手としてではない野球のお仕事は、そこでなさっているのだ。


 部屋に入ると、殿下はなにか書き物をしていらした。

 切りのいいところまで書いたらしく、ペンを置いて顔を上げる。


「お疲れ様、コニー。どうだった?」


 にこやかにそう話し掛けてくる。


「ええ、皆さまに楽しんでいただけたようですわ」

「それならよかった」


 来客用のソファを指し示され、私はそこに腰掛ける。殿下も私の前に座った。

 けれどなにを思ったか、すぐに立ち上がり、私の横にやってきて座り直す。

 ギシ、とソファが軽く沈み、私の身体がそちらに少し傾いた。


 距離が近くなって、頬が熱くなってくる。殿下は私の顔をちらりと見ると小さく笑った。

 どうも婚約者となってから、こんな風にちょくちょくからかわれてしまっているのだ。


 殿下のからかいにそのまま乗ってしまうのもなんだか悔しいので、私は背筋を伸ばしてなんでもない風を装いながら話題を振った。


「キャ……キャンディは、残念でしたわ」


 結局、痛烈なヒットを何本も打たれ、三失点してしまった。

 けれど殿下は特になにを気にする風でもなく応える。


「ああ、まあ、最初から五点は取られてもいいよ、って言っていたんだよね。三失点なら上出来」

「そうでしたの」


 私はほっと胸を撫で下ろす。


「今日は紅白戦だし、勝敗はそこまで見ていないよ。特にキャンディ嬢には雰囲気を知ってもらうのが目的だったから」

「落ち込んではいませんでしたか?」

「まあ多少はね。けれど大丈夫。今も自主的に投げていると思うよ」


 そう言って笑う。


 つまらないなあ、とは思わなかったらしい。よかった。

 彼女はきっと、打ち込めるものを見つけたのだ。


「それと、ジュディさまなんですけれど」

「どうだった?」

「皆さまと仲良くされていたようですわ」

「そう。それはよかった」


 今度は殿下が胸を撫で下ろしている。

 『ジュディは私に関わると、ロクなことにならないのかもしれないね』と仰っていたから、きっと責任を感じているのだろう。


 けれどジュディさまはその心配を上回って動き始めているのだ。


「それから、やっぱりジミーも誘われているようです」


 私がそう言うと、殿下は腕を組んで、うーん、とソファに深く腰掛ける。


「困ったね。いてもらわないと困るけれど……。でも、あちらのほうが条件が良ければ行くかもしれないなあ」

「そうですか……」


 殿下もジミーの移籍は覚悟しているように見える。

 それに。

 真剣勝負がしたい。

 もしジミーが殿下にそう言ったなら、殿下は決してそれを拒絶したりはしないだろう。


「説得はするよ? けれどジミーの人生だから。ジミーが好きなところに行くべきではあるよね」

「それは……そうですね。寂しいですけれど」

「他にも声を掛けられている選手がいるんだろうなあ。ジュディのチームの来季のユニフォームが発表されて、それがまた好評だし、なかなか手強いね」


 なんと、ジュディさまがデザインしたユニフォームが話題になっているのだそうだ。男性用だけでなく、女性用まで用意されていた。

 キャンディも、「あのデザインがいい!」と言い張っているらしい。


 ジュディさまのブランドが、ユニフォームのデザインを変えていくのかもしれない。

 可愛くないですわ、と言っていた彼女は、自らが可愛くしていくつもりなのだろう。

 なるほど、自分のことは自分でなんとかする、と言い切った彼女らしい。


「アッシュバーン家は、ジュディ主導でかなり野球に投資を始めたようだよ」


 にこにこと笑いながら殿下がそんなことを言う。


「まあ、お金は、使うべきところに使うべきだよね」


 喉の奥でくつくつと笑っている。

 野球の発展に公爵家も力強く乗り出してきたことが嬉しいのかもしれない。


 そんなことを考えていると、殿下は一つ、手を叩いて言った。


「そうそう、今日の試合で、どうやら思わぬ副産物を見つけたかもしれない」

「なんでしょう?」

「警備をしていた者に聞いたのだけれど、あからさまに観客席の男性たちが大人しくなったみたいだね」


 苦笑しながら殿下が言う。


「もしかしたら、女性たちが観戦に来るようになったら、自動的に男性陣の野次が減るんじゃないかな」

「そうだといいですわね」


 そのためにも、もっと女性たちの間で野球を広めなければ。

 だからがんばらないと、と私は決意を固める。

 私の表情を見て、殿下は小さく笑った。


「がんばってくれたね。ありがとう」

「い、いえ」


 見つめられて微笑まれれば、頬が染まってしまう。

 いい加減、いろいろなことに私も慣れないと。


「でん……、ウォルターさま、は今日は投げなかったのですね」

「ああ、今日は皆の動きを見たかったから。もしかして、私が投げるのを観たかった?」


 身を乗り出して、私の顔を覗き込むようにしてくる。少し笑っているから、きっとまたからかわれているのだ。


「い、いつでも見れますもの。別に」


 私は一生懸命、すました風に言ってみる。


「そう?」


 首を傾げてそう言って、じっとこちらを見つめてくる。

 う、と詰まったあと、私は返した。


「……本当は、観たかったです」

「そう言ってもらえると、嬉しいよ」


 にこにこしながら、そう言う。なんだか負けた気分だ。

 ウォルターさまは一つ伸びをして、そして立ち上がった。


「少し投げたいんだけれど、捕ってくれる?」

「はい!」


 私は立ち上がる。

 最近は、ウォルターさまも私も忙しくて、なかなか会う機会がないけれど、なるべく一緒にいられるようにと、ときどきこうして球場で落ち合う。


 それはとても幸せで。とても温かで。まさか手に入るだなんて思わなかったことで。

 ふわふわとした夢の中のようだ。


「じゃあ、ブルペンに行こうか」

「はい」


 ウォルターさまがこちらに左手を差し出してくる。私はその手を取り、握り締める。

 手の温かさが私の手に伝わってくる。まるで吸い付くような感触が心地よい。

 いつもこの手が私に、これが現実だと教えてくれる。


 手を繋いだまま、私たちは執務室を出て、ブルペンへ続く廊下を歩き出した。


「今日は少しナックルを投げておきたいかなあ」

「本当に公式戦で投げるおつもりなんですか?」

「ナックルはね、肩と肘への負担が軽いから、長く投げられる球なんだよ。肩は消耗品だからね、負担が軽ければ野球人生を伸ばせるかもしれない。だから試合に使いたいんだけれどね、なかなか」


 そう言って苦笑する横顔を見上げる。


 私の隣にいる人。素敵な人。好きな人。

 彼の野球人生を、一番近くで見て。

 そして一番近くで支えていこう。

 そのために、私はこれからもがんばり続けていこう。


 ウォルターさまの大きな左手をぎゅっと握り締め、私はそんなことを、思ったのだった。


          了


*****

この物語はこれにて完結です。

ここまでお読みいただきまして、ありがとうございました!

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

王太子の球を捕ったら妃になれるというので男爵令嬢は捕手としてがんばります! 新道 梨果子 @rika99

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ