とある、夏の日。

津島沙霧

第1話

 小学二年生の夏だった。

 空の青がとても深い日に、僕はボートに乗って、キラキラと瞬く光の波に揺られていた。

 芝生におおわれた湖畔の公園に目をやると、ちいさな女の子がよちよちと危なっかしい走りで、腕を広げて待つ母親の元へと向かっていて、そんな微笑ましい光景に僕は、一ヶ月ほど前に産まれたばかりの妹のことを考えた。


 僕のちいさなちいさな妹。

 まだ小さいうちに外に出てきてしまったせっかちな妹は、産まれて一ヶ月経ったその日も病院にいた。

 お母さんは、もういなかった。

 ひとりぼっちで病院にいるちいさな妹は、今、どうしているだろう。ミルクの時間だろうか。オムツを替えてもらっているだろうか。そういえば、近いうちに退院できると言っていたっけ──。


 そんなことを考えていたら、

「……ごめんな」

 と、それまでずっと黙り込んでいた、向かいに座っているお父さんが呟いた。

 小さくて、かすれた、震える声。いつも明るく笑っているお父さんのそんな声を聞くのは、生まれて初めてだったので、とても驚いて向き直ると、お父さんは僕を強く抱きしめた。

「本当に、ごめん……ごめんなぁ……」

 僕を包んでいる大きな体は、声と同じように震えていた。

 お父さんの顔は見えなかったけれど、顎を伝い落ちてきた雫がキラリと光ったのを見た。


 お父さん、どうして謝っているの?

 お父さん、どうして泣いているの?

 お母さんがいなくて、さみしいの?

 大丈夫、僕がいるよ。

 ちいさなちいさな妹もいるよ。

 だから、大丈夫だよ。安心してね。


 僕は、お父さんをしっかりと抱きしめ返して、背中をポンポンと叩いた。

 お母さんがいつもしてくれていたように。

 僕が怖い夢を見て泣いた時には、いつだってお母さんはそうやって抱きしめてくれて、僕はとても安心したんだ。




 それから、一年。

 僕は今、お父さんとボートに乗った公園の隣にある、白い建物の前にいる。

 あの日と同じで、空の青はとても深い。

 あの日と同じで、湖にはキラキラと光の粒が弾けている。

 そして、あの日と同じように、僕はお父さんを強く抱きしめている。

 けれど今、僕が抱きしめているお父さんは──一歳になったちいさなちいさな妹よりも小さくて、ちいさなちいさな妹よりも、軽かった。

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とある、夏の日。 津島沙霧 @kr2m

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