第35話 雪原の白馬

 次の日も、その次の日も、エルウィンは起きてこなかった。


 お城の中の雰囲気が、ちょっとナーバスになっていた。ひょっとして、もう起きないのではないか。そんな不安が、みんなの頭をよぎる。


 やっと姿をあらわしたのは、二九日の朝。


 ふらりとエルウィンが、使用人の食堂にやってきた。


 みんなが立とうとしたが、それを制してエルウィンが言う。


「予想以上に、眠ってしまったようだ。みんな、仕事は新年まで休んでくれていい。休暇を取ってもいい」


 食堂内が、ざわめきたった。


「城に残る者は、すまないが僕の話し相手になってくれ。なるべく、多くの思い出を残したい」


 そういうことね。まわりも安心して、すわりなおす。エルウィンが、モリーの横にすわった。


「約束が遅くなった。まだ牛は見たいかい?」

「エルウィン、それはもう」


 わたしの言葉を、エルウィンは首をふって止めた。


「僕が、やりたいことなんだ」


 そう言われると、返す言葉はない。残された数日、彼のやりたいようにしてほしい。


 もうひとつ、モリーに聞こえないように、そっと耳打ちされた。


「三一日の朝に出立してくれ。別れは言いたくない」


 わたしは精いっぱいの笑顔を作って、うなずいた。楽しくいこう。


 朝食が終わると、二十人ほどの一団で牛舎にむかった。


 城主から休暇宣言を受けても、帰る者は、ひとりもいなかった。車で行けばすぐの牛舎。だけど、みんなで歩いた。


 エルウィンは、まわりの人と楽しそうに談笑している。やっぱり、お城は城主がいないと楽しくない。


 あと二日。二日しかない。なにができるわけでもなく、なにがしたいわけでもなかったが、わたしは、彼を目に焼きつけようと思った。


 雑木林を抜けると、想像以上の広さだった。雪が積もり一面真っ白。


 いくつものなだらかな丘が、雪が積もり白い波のように山すそまで続いている。


 雪のあいだには、木のフェンスが頭だけをだしている。雪がのけられた小路も見えた。こんな広大な牧草地なら、昔は何頭の牛がいたんだろう。


 広々とした雪原の中央に、ぽつんと石造りの小屋があった。三棟ほど建っている。


 小屋の前には柵で囲った場所があり、雪がどけられていた。柵の中では鶏が数匹、走りまわっている。


「ポッポさんだー!」


 モリーが、かけだす。


「モリー、すべるよ、気をつけて!」


 ジェームスが追いかけていった。ここ数日、モリーの面倒を見さされて、すっかりお兄ちゃんね。


 ふたりに追いついて、わたしたちは牛舎に入った。石造りの牛舎の中には、三頭の牛がいた。


「お、大きい」


 思わず感想が口からでる。目の前で見る牛は、思ったより大きい。しかも、その大きな体は意外に動く。いつも寝ていると思っていたら、大間違いだった。


 なでていいと言われたが、怖い。尻込みしているのは、わたしとモリーだけ。


 わたしが怖がると、モリーに伝染してしまう。平気な顔をしてさわったが、べろんと手をなめられた時にはもう!


「か、かわいいわね」


 悲鳴をこらえ、ひきつった笑顔でモリーに言った。


 モリーも最初は怖がっていたが、すぐになれて平気でさわる。顔をなめられて悲鳴もあげないのは、わたしより心が強い。でも今日は、もう、あなたのほっぺにキスはしない。


 最後に乳搾りまで体験させてもらった。これで新鮮な牛乳と卵が手に入った。ドロシーが夕方からくると言っていたから、パイ包みの材料にちょうどいい。


「ぜひ、となりへ」


 庭師長がそう言うので、牛舎のとなりにある小さな建物に入った。入ってすぐに聞こえたのが、あらい鼻息、ひずめの音。


 小さな建物にいたのは、真っ白な馬だった。たてがみと尻尾の毛は、やや茶色が混ざっている。それがまた白い馬体をいっそう白く見せた。


 エルウィンがふり返って、わたしに言う。


「ここの人は、真っ白な馬が好きなんだ。ふしぎと昔からね」


 いや、白馬しかありえない。エルウィンは自分が誰なのか、わかっているのだろうか。となりにいた庭師長と目が合うと、庭師長も肩をすくめた。


「馬にさわるのは久しぶりだな」


 エルウィンは、なれた手つきで馬をなでた。


「少し乗ってもいいか?」


 庭師長は、馬具をならべた棚にむかった。いくつかのくらを吟味しはじめる。


「この大きさだと、ふたり乗れるだろう。ジャニス?」


 わたしは即座に、ことわった。


「そうか、不安定なのが苦手だったな。誰か、一緒に乗らないか?」


 みんなが顔を引きつらせ、あとずさる。当然だった。彼と白馬に乗る? そんな厚顔無恥は、ここにはいない。


 となりにメイドのビバリーがいたので、小声で言った。


「エルウィンは自分が誰なのか、わかってないみたいね」


 若きメイドは、血の気が引いた顔でうなずいた。


「あれに乗るぐらいなら、はだかで栗毛の馬に乗ったほうが、恥ずかしくありません」


 同感だ。


「誰か乗らないか? 私の腕前に信用ないだろうが、これでも昔は毎日」


 彼は、まだみんなを誘っている。そういう問題ではないのだ。


「のるのるのるー!」


 その声をあげたのは、この場で、ただひとり秘密を知らない人間。


 ああ、モリーがいて良かった! その場にいた大人は、ひとり残らず、そう思った。


 エルウィンとモリーを乗せた白馬は、ゆっくりと雪がのけられた小路を歩いていく。馬が離れると、みんな一斉に、ため息をついた。


「心臓が止まるかと思いましたわ!」

「いやいや、女性ならまだいいだろう? 男が乗ってみろ、気持ち悪いったらないぞ」

「それこそ、冗談で済みますわ。女性が乗れば、もはや罪です!」


 若きメイドが、じっとエルウィンとモリーを眺めて言った。


「大失敗ですね。今日もモリーにドレスを着せとくべきだった」


 まわりのご婦人方が「ああ、その手があった!」と悔しがった。雪原の中、王子様と小さな子を乗せた白馬。それは一枚の絵画のように見応えがある。


「ママー! もうちょっと乗ってていいー?」

「ごゆっくりー!」


 大人たちが口をそろえて言った。それは、あの子に気を使ったのではなく、自分たちが眺めたいだけだった。

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