第30話 料理とダンスと
料理におどろきすぎて、立ったままなのを忘れていた。ドロシーを立たせたままは悪い。近くのベンチに腰をおろした。
スズキのパイ包みを、おかわりするのも忘れない。ソースを勧められたので、迷ったあげく、小さく分けて五種類すべてをかけた。ソースは、すべて美味しい。とりわけレモン風味のソースが美味しかった。
「オランデーズソースですね、それは」
お皿に残ったソースを指でなめている時に言われた。マナーの悪さに気づき、思わず目を、ぎゅっとつむる。
「そのソースが気に入りましたか?」
目を閉じ、指をくわえたまま、うなずいた。恥ずかしいこと、この上ない。
「今日は細かいことはいいのですよ」
ドロシーは、フレンチの古典的なソースだと教えてくれた。この老女の頭には、いったい何冊分の料理辞典が入っているのだろう。
「こういう料理は、いまは流行らないのですけどね」
「わたしでは、とても作れない料理です」
「おや? ミランダが言うには、相当な腕前と、うかがっております」
わたしは、ちぎれる勢いで首をふった。眼の前のドロシーなどとは、くらべものにならない。
「お客様を誘うのは無礼ですが、ご滞在中にお時間があれば、いくらでも、お教えいたしますよ」
「それはぜひっ!」
ついフォークをにぎりしめ、強く答えてしまった。しかし、ご高齢の彼女に、そこまでどうなのかとも思う。
「わたし、図々しくありません?」
ドロシーが「ふふっ」と笑った。笑い方も上品だ。
「あなたがいなければ、この場はなかったのですよ」
「これはモリーのお手柄です。あの子のわがままが上手くいっただけで」
近くに運転手のボブがきて「踊るかい?」というジェスチャーをした。わたしは丁寧にことわった。スケートと同じぐらい苦手だ。というより、ダンスなんて一度もない。
ドロシーが、微笑んで首をふった。
「ここはせまい社会です。わずかな期間で、あなたは城の人間に好かれはじめています。誰にでもできることでは、ありません」
「買いかぶりすぎです。そんなことは」
「グリフレットは、歴代の執事の中でも変わり者ですが、人を見る目は良いようですね」
執事は、わたしを勇気ある女性と言った。そうだろうか。これまで問題から逃げてきただけ、そんな気がする。
ドロシーが、わたしの顔をのぞき込んで来たので、びっくりして顔をあげた。
「悩みを打ち明けるには、老人というのは、いい相手ですよ」
こんな素晴らしい場で話すことなのか迷った。とはいえ、この城が抱える秘密にくらべれば、他愛もないことかも。
手にしていた皿とフォークをワゴンに置く。わたしは話すことにした。
「今日、エルウィンと彼女が植えたという、樹を見たんです」
「北側にある、イチイの樹ですね」
「知ってましたか!」
「いえ、スタンリーから聞きました。使用人の中で、ちょっとした騒ぎですよ。明日は、みんなが隠れて、こそこそ見に行くでしょうね」
ドロシーも、こそこそと見に行くのだろうか。それを想像すると、ちょっと笑えた。
「あの当時、エルウィンと一般の女性が交際するのは、命がけだったんじゃないかって思うんです」
「おっしゃる通りでしょうね。もはや童話の世界から、ハーレクインの世界です」
「ハ、ハーレクイン読まれるのですか!」
おどろいたが、話が横道にそれそうなので、元にもどした。
「わたしには夫がいました。モリーを妊娠する前です。いまから考えれば、なんでつき合ったんだろう? と思えるような男でしたが」
「モリーは、その男性との子?」
わたしは、うなずいた。
「でも、妊娠中に捕まって、いまでも塀の中なんです」
「あの子は、そのことを?」
「知りません。会わせる気もありません。でも、まだ正式には離婚していないのです」
ドロシーが、もの問いたげな顔をした。
「そうですよね。五年もなにしてたの? と思われるでしょうが、実のところ、なにもしてません」
「ご主人、いえ、その男性と話はしたの?」
「そこなんです。実は刑務所に一度も面会に行ってません。夫に会うのも、刑務所に行くのも怖くて」
ほったらかしにしてたら、五年も経ってた。なんて間抜けなんだと、自分でも思う。
「グリフレットからは、勇気ある女性と言われましたが、このていどなんです」
ドロシーは、うなずきながら話を聞いてくれた。それから、ちょっと遠くを見て、口をひらいた。
「わたくしが二十五の時、はじめて、このお城に来たのをよく憶えています。母から話は聞いていましたので、とても怖くて」
それはそうだろう。何百年も生きている人間がいるのだ。
「わたくしは、十八の時に母から聞き、お城に来たのが二十五。実に七年も、かかっています。あなたより臆病者かもしれませんね」
七年か。わたしは、あと二年のあいだに刑務所に行って、離婚話ができるのだろうか。
「ちょうど、そのころに、フランケンシュタインという、アメリカの映画が流行ってましてね。ボリフ・カーロフという、ロンドン男が演じるフランケンシュタインが、それはそれは怖くて」
「わたしは、ドラキュラだと大騒ぎしました」
「おやまあ! でも、たしかに、ドラキュラのほうが似合いますわね」
ふたりして大笑いした。そんな話をしていると、会場に流れていた音楽が、ゆるやかな曲に変わった。
「ジャニスは踊らないのですか?」
ドロシーが急に聞いてきた。
「わたしは踊ったことがなくて。それこそ怖くて踊れません」
「それは褒められたことでは、ありませんね。どうでしょう、次は、必ず受けると」
さきほど、運転手のボブが誘いに来たが、ほかに若い女性もたくさんいる。そもそも初対面の人が多い。わたしを誘いにくるとは思えなかった。
「そうですね」
とりあえず笑って答えた。ドロシーが、わたしのうしろを見ていた。
「ドロシー?」
「旦那様が、こられます」
ドロシーの目線のさきへ、ふりむいた。エルウィンが、にこやかな顔で歩いてくる。
「ドロシー!」
年老いた元メイド長は「約束しましたよ」と言わんばかりの顔で微笑んだ。
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