第7話
藤椅子に座った蜥蜴ちゃんが、テーブルを挟んで僕に微笑みかけている。
彼女は紺地に白い朝顔の浴衣を着て、赤い帯を締めている。すっと伸びた首は凛として、百合の茎のようにしなやかだ。後ろには般若面の絵があり、その面を被っている女はどこか蜥蜴ちゃんに似て見えた。
これは夢だ。僕はすぐにそう思った。実家のベッドで寝たはずなのに、ここは蜥蜴ちゃんの家のリビングじゃないか。夢に決まっている。
「飲まないの?」
蜥蜴ちゃんのくちびるが動いた。いつの間にかテーブルの上に、透明なグラスに入った冷やし飴が載っていた。生姜の香りが微かに鼻孔をついた。
僕はグラスに手を伸ばしかけたが、ふと(また体が冷たくなるな)と思った。蜥蜴ちゃんの出す食べ物や飲み物、彼女自身の体温の低い体……一度離れてしまうと、それらは本来僕のいる世界のものではなかったように思えた。気が付くと僕の手は止まっていた。
「どうして飲まないの?」
静かな声が、僕の脳を包み込むように耳孔から侵入してくる。
「八巻ちゃんは本当は気づいているんでしょう。そうなの、八巻ちゃんの体が冷たくなったのは私のせいなの。私があなたの熱を盗んでいたのよ」
毎日冷たいものばかり食べさせて、冷たい体で抱きしめて、そうやって生き物から熱を奪うの、と蜥蜴ちゃんは歌うように呟く。僕はもう一度「これは夢だ」と考えた。これは僕が頭の中で考えたものだ。真実ではない。ただの妄想に過ぎない。
「蜥蜴ちゃんは一体、なにものなんだ?」
尋ねると、彼女は黙って首を振った。僕はもうひとつ質問した。
「熱を全部とられたら、僕はどうなるんだ?」
蜥蜴ちゃんは「死ぬの」と答えた。
「冷たくなって死んじゃうの。私が体温を盗った人間の死体が、あの庭にいくつも埋まっているの」
そう言って、彼女は掃き出し窓の方を見た。僕もつられてそちらを向いた。
窓ガラスの外に、性別も年齢も定かでない、土くれでできたような人型がいくつも並んでいた。彼らはぼんやりと滲んだような顔で、レースのカーテン越しに僕たちを見ていた。
僕は情けない悲鳴を上げて籐椅子の上を後ずさった。右肘が柔らかいものに当たって振り返ると、いつの間にか隣に蜥蜴ちゃんが座っていた。
麻の浴衣の涼しげな手触り。仄かな甘い体臭。
「八巻ちゃん、ちょっと熱くなったのね。また冷やさなくちゃ」
くらくらするような囁きと共に、彼女の瞳孔が突然、針のように細くなった。
目を覚ますと、そこはやっぱり実家の僕のベッドの上だった。全身にじっとりと汗が浮かび、頭がガンガン痛かった。
僕はたった今覚めたばかりの夢のことを考えた。蜥蜴ちゃんが本当に人ならざるものなのかどうかはともかく、少なくとも僕の心のどこかには、彼女を怖れる気持ちがあるのだということを、僕はこのとき初めて知ったのだ。
ベッドの上で二転三転しながら、僕は激しく鼓動する心臓を抑えていた。思い浮かぶのは蜥蜴ちゃんのことばかりだった。般若面の絵を背景に座る彼女が、巣で獲物を待つ女郎蜘蛛の姿と被った。そういえば頭痛が始まったのは、彼女の家に寝泊まりするようになってからだ。頭痛は低体温の症状のひとつだという。
「ばかばかしい」
僕はもう一度口に出してみたが、その言葉は妙に虚ろだった。思えば、僕は蜥蜴ちゃんに何か「魔性」を感じていたのだ。人間を食べる魔物のような何か。ばかばかしいかもしれないが、それは彼女のイメージにしっくりきた。
(蜥蜴ちゃんは、僕をどうするつもりなんだろう)
彼女は今もあの家で、僕がやってくるのを待っているのだろうか。部屋の掃除をして、料理の下ごしらえをして、僕の分のグラスをきちんと洗い、籐椅子に腰かけて桜色の爪が並んだ美しい爪先をぶらぶらさせながら、窓の外を見たりして。
夢の中で感じた恐怖とは裏腹に、頭に浮かぶ蜥蜴ちゃんは、迷子になって親の迎えを待つ小さな子供のような顔をしていた。ひとりぼっちで過ごす彼女のことを考えると、胸がしめつけられるようだった。
(蜥蜴ちゃん)
頭の中で名前を呼んだ。蜥蜴ちゃんに会いたかった。
彼女に対する不信感と恐怖とは、僕の中で愛情と矛盾するものではなかったのだ。たとえ体温を全部奪われて死んでも、彼女がそうしたいのなら構わないとさえ思った。蜥蜴ちゃんのいない、砂を噛むような浪人生活に戻るくらいなら、死んだ方がマシだとすら思えた。
その晩、僕は布団の中で眠れず、長い長い一夜を過ごした。
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