第4話

 それから僕は予備校の講義が終わると、アパートとは反対の方面へ向かうようになった。ふたりきりで会いたかったので、彼女に言われなくても、誰かを誘おうとは思わなかった。

 僕がひとりで墓地の横の通りを歩いていると、いつの間にか蜥蜴ちゃんがやってきて、後ろから肩を叩く。何日かして、僕は彼女の持っている黒いレースのついた傘が、晴雨兼用のものであることを知った。

 蜥蜴ちゃんは僕の訪問を喜んだ。僕を藤椅子に座らせていそいそと茶菓子や冷たいお茶、それに冷やし飴を出してくる彼女の様子には、なんだか子供がはしゃいでいるようなほほえましさがあった。いつも藍色や深い青色などの寒色系の服を着ていて、肌の白い彼女にはそれがよく似合っていた。

 蜥蜴ちゃんは本当に熱いものが苦手だった。たとえば温かい飲み物が入ったカップを少し持っただけで、掌が赤くなってしまうのだ。だから台所に立って火を使うときは、厚手のゴム手袋をはめていた。茄子の揚げびたしとか刺身だとかガスパチョだとかの涼し気な料理が、手を変え品を変え、陶器やガラスの器に載って出てきた。彼女の家で夕食をいただき、少し話をしてアパートに帰るというのが、僕の生活のパターンになった。僕のせいで少なからず食費がかさんでいるはずなので、あてずっぽうな金額を渡そうとしたが、それはやんわりと、しかし固く拒否されてしまった。

 蜥蜴ちゃんがいったい何歳で、何をして生活の糧にしているのか、僕にはちっともわからなかった。家にある食器や家具、彼女の服装や出てくる食事の内容を見れば、彼女が一定以上のお金を使えることは明らかだった。家は一人暮らしにしては広過ぎるようだったが、いつ訪れても蜥蜴ちゃん以外の人と会うことはなかった。「家族は」と尋ねられると、彼女は「私ひとりなの」と答えて首をすくめた。誰かが訪ねてくることもなかった。

 気が付くと六月が終わっていた。いくら冷夏と言われていても、夏は暑い。墓地の通りまで僕を迎えにくる蜥蜴ちゃんは、日傘の影で頬を上気させていた。

「いちいち迎えにこなくてもいいのに」

「でも、私が来ないと八巻ちゃん、うちまでたどり着けないでしょ」

 うちの場所はわかりにくいんだから、と言って、彼女は僕を迎えにくるのをやめなかった。

 蜥蜴ちゃんは不思議なひとだった。あんなに僕の世話をかいがいしく焼いておきながら、僕に何を求めているのか今一つ判断がつかなかった。ただ僕が彼女の家を訪ねるだけ、それだけで構わないのだという感じがした。

 それまで女の子にてんで縁がなかった僕が、彼女のような美人を前にして大して臆せずにいたということも、よく考えれば不思議だった。僕自身、彼女とどうなりたいのかよくわからなかった。ただ彼女と会っていない時間は、蜥蜴ちゃんの顔を見て、彼女の隠れ家のような家で寛ぎたいとずっと考えていた。


 蜥蜴ちゃんは冷やし飴が好きで、自分で作ったものを常備していた。いつしか僕もその味に慣れ、やがて水羊羹のお供に冷やし飴が出されても、なんの違和感も感じないようになった。

 七月のある日、おかしな姿勢で寝たせいか、僕は右肩がひどく凝っていた。夕方になり、いつものように蜥蜴ちゃんの家のリビングで冷やし飴を出してもらいながら、長椅子に座って肩を押したり回したりしていると、向かいに座っていた彼女がスルスルと寄ってきて、僕の隣に腰かけた。彼女の重みを受けて、藤の長椅子が少し沈んだ。

「肩、どうしたの?」

「変な寝方をしちゃって、朝から痛いんだ」

「そんな風に押したらだめ」

 彼女は冷たい手を伸ばして僕の右腕をとると、その柔らかそうな親指の腹で、肘の横あたりを丁寧に押してくれた。その辺りにツボがあるらしく、薄皮をはぐように、少しずつ痛みが軽くなっていくのがわかった。

 僕の腕を押す蜥蜴ちゃんの伏し目になった長い睫毛、いつも微笑んでいるような口元、白くて長い首。セーラー服に似たデザインの紺のブラウスに、膝が隠れる長さのスカート。薄いストッキングの向こうに見えるすんなりと揃った五本の足の指。僕の胸は突然高鳴って、呼吸が苦しくなる感じがした。以前のように恐怖からくるものではなく、もっと甘くてしかも抑えがたいものだった。心臓の鼓動が速くなる。そのとき彼女が上目遣いに僕の目を見つめてきた。まるで爬虫類のような感情の読めない瞳だった。僕はふと、彼女なら何をお願いされても傷つかないのではないか、と卑怯なことを思った。

「あのさ」

 声をかけると、蜥蜴ちゃんは「なに?」と僕に向かって口元を綻ばせた。

「冷やし飴を飲ませてくれない?」

 なぜそんなことを頼んだかわからないけれど、その時はそれが僕の一番の望みだという気がしたのだ。衝動のままかけた不十分な言葉だったのに、彼女は僕のことなら何でもわかっているという目つきをした。そして僕のグラスをとって冷やし飴を口に含み、冷たい掌で僕の頬を包んだ。冷たい液体が口の中に流れ込んできた。

 僕は椅子についていた両手を上げ、蜥蜴ちゃんの細く、それでいて丸みのある肩を掴んだ。彼女の姿勢が崩れて、僕たちは藤椅子の、唐草模様をあしらったマットレスの上に倒れ込んだ。椅子がまたきしんで音を立てた。

 僕の体の下に敷かれた蜥蜴ちゃんが、くすぐったそうな笑い声を立てた。スカートの片側がめくれ上がり、僕は彼女が、極薄のストッキングをガーターベルトで吊っていたことを初めて知った。


 その晩、僕はアパートに帰らなかった。

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