第3話
真っ白な一軒家を出てやみくもに歩き回っているうちに、僕は自分のアパートにたどり着いていた。せっかく拭いてもらった体が、またびしょびしょになっていた。
とにかく着替えようと服を脱ぎかけたところで、彼女に貸してもらった服を着たまま帰ってきてしまったことに気付いた。僕のTシャツなんて安物だからどうでもいいが、貸してもらったトレーナーはそれよりもずっと質がよさそうだ。どの程度の値段のものか知りたくて調べてみたが、あいにくタグが切り取られていたためわからなかった。何にせよ、返さなければ盗んだのと同じようなものだ。
仕方なく自宅で洗濯したその服を持って、次の日、僕は彼女の家を探すことにした。予備校は当たり前のようにサボッてしまった。
墓地の横の道をとぼとぼと歩いていると、また雨が降り始めた。今度は僕も折り畳み傘を持っていたのでそれを開いた。さて、ここからどう歩いただろうかと考えていると、後ろから肩を叩かれた。
「またお会いしましたね」
振り返ると、まさに探していたあの女の子が、今度は紺色のワンピースを着、傘をさして立っていた。
ふたたびあのリビングに通された僕の前に、湯気の立つコーヒーカップが置かれた。彼女は自分の前にガラスのカップを置き、少し赤くなった指先をまた軽くこすり合わせた。
「どうぞ」
「いただきます」
僕はどきどきしながらコーヒーを飲み、ようやく服のことを思い出した。ぺこぺこしながらそれを出すと、彼女は「わざわざ持ってきてくださったの? どうもありがとうございます」と嬉しそうに声を弾ませた。その声を聞いて、僕はようやく、この間のお礼すら言えていないことを思い出した。
「あの、僕の方こそ色々ありがとうございました」
「どういたしまして」
彼女はまた、魔法みたいな笑顔を見せた。相変わらず抜けるような色白だが、目尻だけがほんのり赤らんでいた。
「あの……」僕は何か話さなければと思って、ふと彼女の手元に目をやった。「熱いものが苦手なんですか?」
彼女はこすりあわせていた手をぴたりと止めた。
「はい、実はそうなんです」
「じゃ、じゃあすみません。コーヒー……」
「大丈夫ですよ、それくらい」
彼女は微笑んだまま自分の目の前のカップをとり、形のいい唇につけた。ごく薄い琥珀色の透明な液体が、口の中に流れ込んでいく。
「それ、何ですか?」
「これ? 冷やし飴」
僕は冷やし飴という飲み物を飲んだことがなかった。正直にそう言うと、彼女は小首を傾げて「飲みます?」と尋ねてきた。
僕はコーヒーを飲み干し、二杯目に彼女の手作りだという冷やし飴を戴いた。生姜の風味のある甘い液体がコーヒーを洗い流すように僕の食道を通っていき、一口ごとになにかしらの魔法をかけられているような気がした。
顔を上げると、彼女が異様に輝く瞳を僕に向けていた。
「今日はいそがしいの?」
低い声が僕の脳に流れ込んでくる。僕は首を横に振っていた。
名前を聞くと、彼女は「好きにどうぞ」と言い、小首を傾げて微笑んだ。ひとつに束ねた長い黒髪が、しっぽのように背中の後ろで揺れた。
なめらかな肌の、手足の長いほっそりとした姿を見ていると、僕にはふとニホントカゲの小さくてほっそりとした、しなやかな姿が思い出された。小学生の頃に一度捕まえて飼ったことがあるが、長生きさせることができなかった。
「蜥蜴ちゃん」
ところてんを押し出すように、そんな名前が口からスルッと出てきた。言ってしまってから、トカゲなんて女性に受けそうにないし、おまけに「ちゃん」付けだしいくら何でも失礼だった、と思って恐る恐る彼女の顔を見ると、彼女は嬉しそうに小さな笑い声を立てた。そして「素敵ね、八巻ちゃん」と言った。
それで僕は、彼女を「蜥蜴ちゃん」と呼ぶようになった。
蜥蜴ちゃんの家はひんやりと涼しかった。「暑いのが苦手なの」と彼女は言った。いつの間にか彼女とかなり打ち解けた口調で話していることに気付くまで、少し時間がかかった。
その日は蜥蜴ちゃんに昼食の素麺をご馳走になった。とりとめのない話をしているうちに魔法のように時間が過ぎ、気づいたときにはガラス窓の向こうが暗くなりかけていた。明日はちゃんと講義に出なければならない。今日サボッてしまった分も合わせて、テキストを予習しておく必要がある。
「そろそろ行かなきゃ」
そう言って立ち上がると、蜥蜴ちゃんは僕を、玄関まで送ってくれた。
「また来てね。八巻ちゃんひとりで」
そう言って彼女は僕に、僕のTシャツが入った小さな紙袋を渡し、ついでに僕の手をきゅっと握った。細くしなやかで、ひんやりと冷たい手だった。
ブロック塀の外に出て一度振り向くと、玄関の扉を開けて半身を出した蜥蜴ちゃんが、僕に手を振っていた。僕も振り返した。
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