第2話

 僕は女の子の傘に入れてもらって、案内されるままに歩いた。

 少しすると、僕たちは高いブロック塀に囲まれた一軒の家の前に出た。真っ白い箱のようなデザインの、二階建ての一軒家だった。玄関の庇が丸くせり出し、そこだけ地面が濡れずに白く残っていた。

「どうぞ」

 彼女は玄関の戸を開け、にこにこしながら僕を促した。その時に確認したが、表札のようなものは見当たらなかった。

 家の中は薄暗かった。彼女は草履を脱いで揃えると電灯は点けず、廊下の奥に僕を案内した。歩くたびに見える白い足袋の裏が、なんだか不思議な生き物のようだった。

 通されたのはどうやらこの家のリビングだった。大きな掃き出し窓の傍に藤椅子がふたつ置かれ、その間にガラス天板のローテーブルがある。レースのカーテン越しに、雨の降る何もない小さな庭とブロック塀が見えた。

 彼女はテーブルの上の照明を点け、僕を藤の大きな長椅子に座らせた。それから足早に家の奥に消え、すぐに真っ白なバスタオルを持って現れた。ふかふかでほんのり洗濯洗剤の匂いがするタオルを両手に持って、彼女は子供にするみたいに、僕の頭から上半身をごしごしと拭いた。僕はされるがままになっていた。途中で彼女は「これじゃ間に合いませんね」と言ってまたパタパタと奥に消え、今度は服を持って現れたかと思うと、ニコニコしながらまるで魔法みたいに僕の濡れたTシャツを脱がせて、持ってきた薄手のトレーナーに着替えさせてしまった。

 何だか夢を見ているような気分だった。どこかで電化製品のたてる微かな「ブーン」という音がしている以外は、人里離れた場所に来たかのように静かだった。

 僕の正面の壁には大きな絵が飾られていた。般若面を斜めにつけた女が、口に白い紙を咥えている様子が、かなりリアルに描かれていた。気味の悪い絵のはずなのに、この整然として薄暗いリビングには、なぜかとても似合っている気がした。それをぼんやり眺めている間に、いつの間にか僕の前には湯気を立てるコーヒーカップが置かれていた。

「どうぞ」

 彼女はそう言うと、般若面の絵を背にして僕の向かいに座った。そのとき細長く白い指をかばうようにこすり合わせたのが、やけに目についた。彼女の前には透明の液体が入ったグラスが置かれており、そこからは湯気が立っていなかった。

「い、いただきます」

 僕は初めて彼女に声をかけ、コーヒーカップを口に付けた。ブラックコーヒーを飲むのはこの時が初めてだったが、旨いと思った。熱い液体が雨で冷えた体内をまっすぐ落ちていき、生き返ったような気持ちになった。

 彼女は僕を見つめて嬉しそうに笑っていた。幅の広い二重の、大きな茶色い瞳が、拾ってきた子犬を見るような甘ったるい優しさに満ちているように見えた。

「あの、すみません。迷惑かけて」

「お気になさらないで」

 彼女の口調は丁寧で滑らかだった。落ち着いた着物姿をよく見ると、なんだか十代の女の子のようにも、僕よりずっと年上の女性のようにも見えた。不思議なひとだと思った。いっそ「もう何百年もこの姿で生きているんですよ」と言ってくれたら納得できるような気がした。

「今お洋服を洗濯しているから、ゆっくりしてらしてね」

 色の薄い唇がほころんだ。

 そのとき僕の胸がドクンと鳴った。なぜかはわからないが、それは決して甘いときめきなどではなく、むしろ恐怖に近いものだった。何か巨大な生き物に見られていることに気付いたような、そんな気分だった。

「あの、いえ、その」

 僕は慌てて立ち上がり「帰ります」と告げた。心臓がドキドキ鳴って、僕の本能が「一刻も早くここを去らなければならない」と喚いていた。

 彼女は僕の目を、その茶色い大きな瞳でじっと覗き込み「まだ雨が降ってますよ」と言った。

「いえ、その、急ぐので。すみません」

 僕はペコペコ頭を下げながら肩掛けカバンを抱え、玄関から外に飛び出した。背後で「お気をつけて」と声がした。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る