蜥蜴ちゃん

尾八原ジュージ

第1話

 彼女のことを、僕は「蜥蜴ちゃん」と呼んでいた。


 初めて彼女に出会ったのは、今から十年前の六月、雨の降る日のことだった。

 十年前、僕はまだ十八歳だった。高校を卒業したはいいが大学受験に失敗し、一年間浪人することになったのだ。僕の実家は県内でも田舎の方にあり、予備校のある都市部に出ていくには、本数の少ないバスに一時間近くも揺られる必要があった。そこで僕は予備校の近くの古いアパートに間借りすることにして、孤独な浪人生活をスタートさせたのだった。

 四月のうちはまだよかった。始まったばかりの新生活に僕はまだ新鮮なやる気を持っていたし、後がないという焦りもあったから、去年以上に懸命に勉強した。ところがゴールデンウィークが始まってしまうと、早くも停滞してしまった。高校時代の、今はあちこちの大学に散ってしまった友人たちの何人かが、地元に戻ってきたのだ。一番仲のよかった三ツ森みつもりというやつに、「ひさしぶりに集まるんだけど、八巻やまきも来る?」という連絡をもらったとき、僕は迷った挙句「ごめん、忙しいから」と断った。交友関係の中で浪人生は僕だけだったので、彼らの輪の中に入っていったら、ひどくみじめな思いをするような気がしたのだ。そうなってしまったら僕はもう立ち直れないと思った。

 でも彼らが集まっているはずの日、僕はそわそわして落ち着かず、連休中も行われた予備校の講義も、自宅学習もまるで手につかなかった。アパートは当時でも珍しかった六畳の和室で、僕はその毛羽だった畳の上で所在なく寝返りをうち、もう何度も読んだ漫画を読み返して休日を過ごした。

 情けない話だけど、これっぽっちのことで僕のやる気はすっかり萎れてしまったのだ。惰性で予備校とアパートを往復しているうちに憂鬱な五月が終わり、気づけば六月が始まっていた。


 その年の六月は雨が多かった。気温も低く、今年は冷夏になるのではないかと言われていた。僕はその日の講義を終えて、アパートにとぼとぼと帰る途中だった。ところがいざ自室のある古びた二階建ての建物が目に入ると、なぜかまっすぐそこに帰るのが嫌になってしまった。僕はきびすを返し、元来た方に歩き出した。

 予備校の前を再び通り過ぎ、いくつか道を曲がって、大きな寺のある通りにやってきた。広い墓地の横を歩いているうち、僕の頭にぽつんと雨粒が垂れた。見る間に雨が降り始めた。

 僕はテキストの入った肩掛けカバンが濡れないよう、とっさに体の前に抱えた。しかし足は相変わらず前へ前へと進んでいた。アパートからどんどん遠くなってしまうが、だからといってあのかび臭い部屋に戻るのも気が進まなかった。背中を丸め、自分の爪先が濡れていくのを眺めながら歩いていると、突然視線の先に一対の足が現れた。

 それは足袋を履いていた。雨が降っているのに染みひとつなく、青白く光って見えるほど白かった。鼠色の草履の鼻緒を指に挟み、その上に紺色の細かい縦縞の着物が続いている。いつの間にか僕の頭には、雨がかかっていなかった。

 僕は顔を上げた。すぐ目の前に紗の着物を着た若い女の子が立っていた。ほっそりしていて背が高く、長い首の上に乗った小さな顔が僕に微笑みかけていた。白い芙蓉の花を思わせる笑顔だった。きめの細かい肌は、着物の色が染みてしまうのではないかと思うほど白い。真っ黒な長い髪をゆるいお団子にまとめ、縁に黒いレースのついた、まるで日傘みたいなデザインの傘を差していた。

「ずいぶん濡れましたね」

 彼女の少し大きい、形のいい唇が動いた。

「ちょっと、うちにいらっしゃらない?」

 まるで脳の隙間に染み込んでくるような、女性にしては低い声で話しかけられた僕は、一も二もなく頷いていた。

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