春の気温

とげとげイチゴ

第一話

 マフラーを持ってきたのは間違えだったと列車を降りてすぐ気づいた。読みもしない参考書でいっぱいのリュックサックにそれをしまう。IC カード乗車券の準備をしながら今日の昼食の算段をすることにした。コートのポケットを探りながら改札へ向かう階段を上る。心拍数の上昇とともに自分の体温が上がっていることに気づいた。駅前の定食屋は空いているはずだが、気分が乗らないのでコンビニ弁当で済ませることにした。駅を出ると、太陽は雲に遮蔽されているにもかかわらず、その光線の力強さを感じた。コートを脱いで腕で抱え、大学に向かうことにした。

 研究室の鍵を開け、自席に座る。他の学生はすでに、自分の所持品を持って帰るか、あるいは捨ててしまったようで、机の上はスッキリしている。隣の席に勝手に座り、机の上にコンビニで買った食べ物を広げた。チルドの牛丼を電子レンジで温めている間、サラダにドレッシングをかけてむさぼる。皿に移さず袋のまま食べるこの食べ方は、研究室の同僚がいつもやっていたものだ。物理学者にとって計算力は基礎体力だ。彼は現象の対称性を鋭く見抜いて、行列の形を整理するのが得意だった。例えばハミルトニアンが粒子数を保存する場合、同じ粒子数の状態が張るヒルベルト空間についてブロック対角化されることが良く知られている。彼はいつも、結晶構造の一部を抜き出した不思議な形の上で定義された物理量を持ってきて、それが保存量か否かを調べていた。私は行列のキモチがわからなかったし、行列をきれいに整理したいというモチベーションもなかった。なので、私にとって、彼は天才のように見えた。食事をするときでさえ黒板をにらみつけ、何か思いついた顔をしてはチョークで式を書きなぐっていた。私は黒板に書かれた数式たちを眺める。当時は意味不明な数式だったが、今となってはとても簡単なことのように感じられる。ふと、電子レンジの中身のことを思い出したのでそれを取りに行く。チョーク粉の舞う埃っぽい研究室で、牛丼を食べる。

 ずっとつけっぱなしだったパソコンの電源を切り、机にあった大量の書類をゴミ箱にぶち込んだ。目に見えるものが無くなっただけできれいになった気がした。インターネットで見つけた読みかけの論文も、汚い字で埋め尽くされた計算用紙も、指導教官の手によって真っ赤に染め上げられた発表資料も、すべて無秩序な紙くずと化した。ゴミ箱の中の局所的なシャノン・エントロピーが高まっているな、などと考える。私にとって大学は、先人が残した莫大な情報の一部を、自分の頭脳向けに複合化するための機関だった。教科書や論文の中に符号化されている情報は、そのままの形では人間の頭の中に入らない。教員や友人との議論などによってその情報が持つ意味を知ることができる。ゴミ箱の中の文字列情報は、私が苦労して獲得した知識たちだった。彼らはこの後、高熱に晒され酸素と結合し煙を出して死んでゆく。私は彼らを憐れむことはできない。なぜなら、私は彼らに死刑を宣告した裁判官なのだから。

 部屋の照明を消し、鍵を閉める。建物の外に出ると、あたりは少し暗くなっていた。風も強くなっていたのでマフラーをすることにした。私のいた大学は、周辺の地域としては珍しく緑が多かった。森の方を見るとそこはすでに闇に覆われていた。キャンパスには人はまばらだ。通りを歩くのは私と、片付けを始めた運動部の連中だけだった。自販機に立ち寄り、コーンスープを買った。歩きながらそれを飲んで、空き缶を駅のゴミ箱に捨てようと思った。

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春の気温 とげとげイチゴ @togetogeichigo

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