空の向こう側

出井啓

空の向こう側

 雲一つ無い晴天の砂浜に向かって親子が立って。

「どうだ、これが本物の海だ。広いだろう」

 父親がじっと遠くに目を向けて呆けている子供に問いかける。その言葉に、はっと気づくと目を輝かせて答えた。

「すごいよ! 空のはしっこが見える!」

 自分の発見の素晴らしさを教えようとするかのように、水平線に向かって指をさす。そこには何にも遮られる事無く広がる青空が海に沈み込んでいた。建物に切り取られることなく続く空が、目の前の海よりも広大で鮮やかに映った。

 父親は驚いた顔をした後、苦笑しながら言った。

「海より空か。よし、肩車してやろう。もっと遠くの空のはしっこが見えるぞ」

 そう言ってひょいっと持ち上げ肩に乗せた。

「おぉ~。もっと高く、背のばして。空のむこう側が見えるかも」

 肩の上でシャチホコのように体を伸ばしながら目をこらす。

「空の向こう側かぁ。よし、これで見えるか?」

「見えそうなの。ほら、もっとのばして」

「これ以上高くは無理だなぁ」

 母親に呼ばれるまで、ずっと上を目指し空の向こう側を求めた。

 


 学校の屋上で高野和也はフェンスの向こうの景色を見ていた。景色と言っても数十メートル先にある高速道路が全てを遮って何も見えなかった。

 それに、空一面分厚い雲が覆っていて薄暗い。学校の屋上にいると雲は地上にいるときより近づいて見えるが、いくら手を伸ばしても届かない遙か上空で陽光を遮っている。昼頃は晴れていたというのに、今にも蓄えきれなくなった水をこぼしてきそうだ。

 そんな空模様を見上げながら、和也はクラスメートの藤堂由香を待っていた。一年熟成させた気持ちを、夏休み前に告白しようと思ったからだ。ただ教室で言うわけにもいかず、かといって手紙で呼ぶなど出来ない。なので、友人に伝言を頼んでいる。来てくれるかもわからなかったが、屋上の扉に向かってシミュレーションをしておく。

「まずは自然な感じに話しかけて、ストレートに告白すべきだよな。でも、いきなり言うのもおかしいか。ちょっと会話をしてから」

 屋上には和也以外誰もいない。開放はされているのだが、あまり綺麗に保たれているわけでは無いからだ。わざわざ登ってくるような生徒は少ない。眼下のグラウンドでは、明日の終業式が終われば夏休みということもあり、普段より浮かれた生徒が大勢下校していた。

「話を切り替えるのが難しいな。やっぱりいきなり言った方がいいのか」

 誰にも聞かれることのない言葉が拡散して消えていく。覚悟は決めていたはずだが、直前になると迷ってしまう。

 ぎぎぃと築三十年の屋上扉が、悲鳴を上げながらゆっくりと開いた。フェンスから手を離し、今更ながら髪を軽く整える。扉を両手で押し開けた由香が屋上に出てきた。

「掃除、終わったのか」

 由香は、うん、と頷き風に煽られる髪を押さえる。薄い黒を基調としたブレザーに、胸元の校章と襟の赤いリボンが映えていた。いつも見ている制服姿だが、見とれてしまい沈黙が流れる。グラウンドにいる生徒のざわめきや風の音が、やけに大きく聞こえた。

「それで、話ってなに?」

 揺らめく制服の裾に目を向けていると、いきなり本題に移された。とたんに緊張が高まる。

「あのさ、伝えたいことがあるんだ」

 のどが渇き、声がうわずる。緊張感が伝わったのか神妙に頷く由香を見て心を決めた。

「俺と付き合ってくれ」

 手足が震えるのがばれないよう、必死に力を込める。堂々と見えるようしっかりと目を合わせて言ったが、由香はすぐに逸らした。その目には困ったような色が見える。

「ごめん」

 きっと呼び出されたとき、すでに告白することがわかっていたのだろう。大した驚きも迷いもなくあっさりと言った。

「嫌いってことじゃないの。その、別に好きな人がいるから」

 グラウンドに視線を落としながら気遣うようにかける言葉が追い打ちになる。誰とも付き合っていないという話を聞き、もしかしたらと一縷の望みにかけていた。ふられることも想定していたはずだ。そのために夏休みの前を選んだのだから。

 いや、いいんだよ、気にしなくって。ただ伝えたかっただけだから。そんな言葉を笑いながら言いたかった。でも、それさえも出来ず、声はのどに貼り付いて呼吸が漏れるだけだ。気まずそうな由香がそれじゃ、と右足を引く。

「友達が待ってるから。またね」

「おう」

 ひねり出した一言を背に受けた由香は、扉のノブを両手で引いた。扉は嫌がらせの様に由香の力に逆らい、悲鳴を上げながらゆっくり動く。手伝おうと思ったが足は動かなかった。心配そうに少しだけふり返り、重そうに開けた扉から出て行った。

 近くの飛行場から学校の真上を飛行機が通過していった。天気が悪いからか、いつもより低空飛行に感じる。飛行機の音と風におされるように、和也は緩慢な動作でフェンスに左肩を預けた。足はしっかりしているはずなのに感覚がふらふらする。ボクサーがダウンする感じはこんなものだろうか。そう思うほど言葉の一撃は重かった。

 脳内では、さっきの由香の泳ぐ目や、なびくセミロングの髪が再生されていた。あれは何かの間違いで、後で逆に由香から告白してきてくれる所まで想像し、溜め息をつく。

 ぼんやりグラウンドを眺めていると、二人組が目に映った。遠くではっきりとは見えないが、男女ペアであることはわかる。普段なら呪詛を呟く所だが今はそんな元気もない。

 帰宅する生徒もまばらになっており、部活動が始まろうとしていた。二人組はそんなグラウンドの端を歩いていく。和也は何気なくその二人を目で追った。フェンスを掴んでいた右手に雨粒が当たる。額、腕、続々と降ってきた。

 女子生徒が鞄から傘を取り出した。開かれた傘は見覚えがあるものだった。何度も見て何度も想像に出てきた折りたたみ傘だ。モノクロに見える世界で、その深い赤色の傘が映えて見える。

 女子生徒がふと屋上を見上げたとき、和也は出口に向かって全力で走り出した。

全体重をかけて重い屋上の扉を引っ張り開ける。一段飛ばし二段とばし、四階三階どんどん階段を駆け下りる。自分の教室がある階もすっとばし、靴箱を駆け抜け校舎横にある駐輪場に飛び込んだ。荷物は教室に放置され、上靴のままだが気にならなかった。自転車に乗り、全力でペダルを踏む。

 雨脚は着実に強くなっていた。合わせるように鼓動も早くなる。校門を出てすぐ、車道の脇を走り歩道にいる二人組を追い抜かした。楽しげな声が耳をかすめて、雨音に消えていった。

 通学路を走り幾人かの生徒を追い抜く。そして、駅を通り過ぎると、和也の学校の生徒はいなくなった。

 踏切を渡り、住宅地に入る。滑り台と鉄棒しかない小さな公園の横を通り、突き当りにある角を曲がったとき、自転車の後輪が滑った。あっと思った時には遅く、地面が急速に近づいてくる。

 とっさに自転車を離し、地面に転がった。そして、すぐに起き上がり、左右を見渡す。幸い自動車が来ることもなく、人に見られることもなかった。地面に打ち付けられた衝撃で少しぼんやりとする意識の中、道に立ち尽くして自分は何をしているんだろうと思う。アスファルトに削られ熱をもつ左腕が、雨に冷やされていった。

 自転車の前輪は民家の塀に激突し、後輪はカラカラ空転して雨音と調和していた。滑ったところをみると、そこにはマンホールがあった。和也は前にも滑りかけたことがあり、おそらくこいつのせいだろうと思った。無心で走っていて気付かなかったが、慣れている帰路を選んでいたようだった。

 自転車を起こして確認すると、チェーンが外れてハンドルが少し歪んでいるものの、運転には支障が無いようだった。

 和也は自転車のチェーンを直し、自分の家とは逆の方向に自転車を走らせた。こんな姿で家に帰るのが嫌という事もあるが、それよりもどこか遠くへ行きたかった。

真っ先に浮かんだ行き先は海だった。

 でも一人で行くのは嫌だった。フラれたから行くのではなく、なんでもないことのように海へ遊びに行くだけだという形で行きたかった。

 何の意味もないことだが、和也の意地だった。

 今日伝言を頼んだ友人、大山孝史を誘おうと決め、孝史の家に向けて自転車を走らせる。

 大雨の中に自転車で海に行くなんて馬鹿な提案を受けてくれるのはあいつしかいないと思った。

 家は近所にあり、一分とかからないうちに着いた。雨は激しさを増して視界が悪く、遠くの景色が見えなくなるほどだった。

「和也か。どうした?」

 インターホンを鳴らすと、すでに私服に着替えていた孝史が、玄関から出てきて言った。和也は雨に叩かれながら笑って答える。

「今から、海、行こうぜ」

 孝史は「はぁ?」と呆れたように言った。土砂降りの中でケガをしたやつが、自転車で海に行こうと誘ったのだから仕方のないことだろう。

 孝史はじっと和也を見て「ちょっと待っとけ」と言い家の中に入っていった。さすがに無茶だったかと和也は思い、一人で行けば良かったかと今更ながら考える。しばらくしてまた出てきた孝史はドアの鍵を閉め、和也にタオルを渡した。

「血が制服につくぞ」

 左腕から雨と血の混じった薄く赤い雫が流れていた。手に付いていたチェーンの油と腕から流れる血で、白いタオルは一度拭いただけでひどく汚れ、今になって痛みを感じた。

 それを見ていた孝史はそのタオルを和也の腕に巻いて結んでやった。

「じゃあ行くか」

「いいのか?」

 たった数秒でびしょ濡れになった大山は、自転車にまたがり、固まっている和也に頷く。

「海、行くんだろ?」

 自分から誘ったことだが、当然の様に答える大山に驚き、心の中で感謝した。

「おう。ダッシュで行くからな。遅れるなよ」

 胸に広がる暖かさをごまかすかのように、力強くペダルを踏む。住宅街を抜け、人のほとんどいない河原のサイクリングロードに下りた。増水した川の流れと競争しながら、緩やかな下り坂を南下していく。ここを道なりにまっすぐ下れば、海に到着する。

「大丈夫か?」

 三メートルほど後方にいる孝史に声をかける。

「余裕だ!」

 前を見にくそうにしながら、にやりと笑って答えた。

 雨はさらに強く大粒になり、蛇口を最大までひねったシャワーを当てられているような気分になる。視界がますます悪くなっていた。海まで五キロ以上あり、まだまだこぎ続けなければならない。誰一人として出会わない道を、どちらも無言で走った。新幹線の高架下を通り、橋の下をくぐり抜ける。

 何十分自転車で走り続けただろうか。名前も知らない学校やさびれた工場を通り過ぎ、変わっていく景色と弱まり始めた雨の間に、海の気配を感じた。潮の香りが徐々に強くなる。

 着いた海は浜辺などではなく、道沿いに一メートルほどの高さの堤防が続いている場所だった。適当に自転車を止め、堤防に肘をつく。

 堤防から海を覗き込むと、三メートルほど下に積み上げられたテトラポットが見える。遠くの空には小さな晴れ間が見えていた。

「雨、止んだな」

 同じように堤防から海を見ながら孝史がつぶやき、和也に「そうだな」と答えた。

「海はどうだ?」

 和也は前に広がる光景を見渡した。港から広がる海は波打ちながら水平線に消えていく。海を見たらその広さに自分の悩みなんてちっぽけなものだと思えるなんて言うけれど、そんな風には全く思えない。けれど、暗く濁った気持ちはここに来るまでに少し洗い流されているようだった。

「海は……広いな」

「当たり前だろ。それで、何かやりたくて海に来たんじゃないのか? 海に向かって叫ぶとか」

 何故海に来たかったのか、和也は自問自答する。目的があって来たわけではなかったが、思い出したのは幼いころに見た海の事だ。

 和也はおもむろに堤防の上によじ登り立ち上がった。

「何してんだよ、危ないぞ。まさか本当に叫ぶのか?」

「いや、空の向こう側が見えるかと思って」

 孝史はきょとんとして和也を見上げる。

「はぁ? なんだよ空の向こう側って」

「さぁな」

「それで、見えたのか?」

「いいや、全く」

「おい。せっかく来たんだから見えたって言えよ」

 不満そうな孝史に和也は笑う。

 空の向こう側は見えなかったが、沖の方で雲間から漏れる光とそれに燦めく海を見て、和也は素直に美しいと感じた。どこかでボォーっと低い音色の汽笛が鳴り響き、カモメが飛び立っていく。

 海から目を離さず「孝史」と声をかけた。孝史も海に目を向けたまま「どうした」と答える。

「ありがとな」

 すんなり出てきた言葉が海に溶け込む。孝史は今までで一番驚いたようだった。

「たまには海見るのも良いもんだ」

 少し照れくさそうに言う孝史に、和也は少し笑って「そうだな」と答えた。

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