花胸風懐

安良巻祐介

 胸に花びら懐に風、と失踪する直前の父に聞かされて以来、私の頭の中にその言葉が住み着いて、去らなくなってしまった。

 あれから五十年たち、恐らく父はもう生きてはいないだろうが、記憶の中で家の扉を開けて出てゆく父の、ちょっと近所へ煙草でも買いに行くような背中と、ぼそりと呟いた「胸に花びら 懐に風」という声の色とは、私の脳髄の中でますます精彩を増している。

 毎夜浴びる酒精のもたらす、無数の桜吹雪に似た特殊な飛蚊症が、その父の背中と呟きを彩って、まともに世の中のものも見えなくなった私にとっての、唯一の思い出になっている。

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花胸風懐 安良巻祐介 @aramaki88

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