第18話 辺境伯と黒すぐりのタルト(2)

「タルトというものは、美味しいのぉ……」


 ディアドーネが、わたしの隣にしゃがみこんで恨めしそうに両手を眺めている。今にも指をしゃぶりそうだ。


「そうですね。私も、黒すぐりのタルトが、こんなに美味しいものだなんて知りませんでした」

「我も美味しいという言葉を使うとは思わなんだ。実はな、今、猛烈にタルトを食べたことを後悔している。一度食べてしまったら、その味、その感触、忘れられない。また、食べたいと思ってしまう。……その点、人間は、都合よく覚えていたり忘れることができる。羨ましい限りじゃ」

「そうですか? 忘れたいことほど、忘れられないものですよ」


 父上に殴られて寝込んだ時のことは忘れたくても忘れられない。


「記憶なんてものは、いくらでも書き換えられるものだ。おぬしもグレンのことを思い出してみろ。今までは冷たく睨んでいたグレンの顔がどうしていいか困り果てた顔に変わっておるだろうに」

「……」

「全ては己次第じゃ。……それよりも、もう、タルトは持っておらぬのか?」


 何事も自分次第だというディアドーネ。

 本当にそうかもしれない。

 あの日のことも、誰かに話を聞けば、また違った考えになるかもしれない。戻ったら、ウォルターに聞いてみよう。


「ディア、タルトはまた、持ってきます。今度はゆっくり食べられるように大きなタルトを用意しましょう」

「なぬ? 大きなタルト!! それは楽しみじゃ。楽しみがあるというのはよいのぉ。わくわくしたり、いらいらしたりできる」


 少し頬を染めながら嬉しそうにディアドーネが笑った。タルト一つではしゃいでいるディアドーネの笑顔を見ていると、自分まで嬉しくなってくる。


 今まで私は自分の世界しか見てこなかった。父上に嫌われていると信じ込み、ギルバートを羨み……、何も見てこなかった。


「……、私は、変わることが出来るでしょうか……」

「未来は幾通りにも存在しておる。己次第じゃ」

「そうですね。私次第ですね」


 私はやっと気持ちを切り替えることが出来そうな気がする。


「人間は変化し続けることができる生き物じゃ」


 ディアドーネの言葉には、どこか羨望の響きが籠っていた。この時、私はその響きに気づくことは出来なかったのだが……。


「変化し続ける?」

「そうじゃ。昨日から今日、今日から明日へと、心も体も変わっていくじゃろ? ま、それがいい方に変わるか、悪い方に変わるかは己次第じゃがな」

「……」

「おぬしは大丈夫じゃ。我もおる。我はおぬしのじゃろ?」


 ディアドーネが、私の手を握って笑みを浮かべる。


「困ったら我に問えばいい。もちろん、対価をもらうが、おぬしの望む未来を見せよう。どうじゃ?」

「……ディアは、こんな私を友と呼んでくれるのですか?」

「おぬしがそう望んだではないか」


 困った子どもをあやすような顔をしてディアドーネがいう。そして、私の手を離すをすっくと立ち上がった。そして、私の前に立った。


「コホン……、では、今日のタルトを対価に、魔術具の魔石を作るとしようかのぅ」

「え? いいのですか?」

「特別じゃよ。特別」


 ディアドーネが茶目っ気たっぷりに片目をつぶる。


「タルトが我の心を動かしたおかげで、体中に魔力も満ちている。おぬしは自分を取り戻せた。近いうちにグレンの赤い魔石も手に入るのだから、まあ、大丈夫じゃろ」


 そう言うと、ディアドーネがごそごそっと服の中に入っていた首飾りをたぐりよせた。水色の魔石を中心に5つの輪が重なっていて、一番外側の輪には円錐の雫がついているチャーム。ディアドーネは、右手でチャームの上部を持つと、円錐の下に左手を添えた。そして、私の知らない言葉で呪文を唱える。


 ディアドーネの長い髪が舞い上がり、外側以外の4つの輪がそれぞれぐるぐる回りだし、水色の魔石が輝き始め……。


 あまりにも幻想的な光景に、私は思わず息を止めて食い入るようにディアドーネを見つめた。


 円錐の雫の先から濃紫色の魔石が現れると、音もたてずにディアドーネの左手の中に落ちた。


「ほれ、魔術具の魔石じゃ。これは浄化の方じゃの」

「……ありがとうございます」


 私はそれをそっと受け取ると、光のあるほうにかざしてみた。濃い紫色が光を反射して煌めいている。なんて綺麗なんだろう。陰りのない紫なのに濃い。それなのに透明感がある。小さいけれど、底知れない魔力が伝わってくる。


「まるで、黒すぐりのような色の魔石ですね。見たこともない紫色でとても綺麗です」

「じゃろ? その魔石は我しか作れぬ」


 ディアドーネが少し胸を張って答えた。私は、大事にそれをハンカチで包むとポケットに入れた。


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