第3話 辺境伯(2)

 私は、きつく拳を握りしめながら自分の白いシャツに紅茶のシミが広がって行くのを黙って見ていた。


―― 今は傀儡だけれど、いつか必ず自由になる。それまでは我慢!!


 私は心の中で叫ぶ。母上は気に入らないと癇癪を起して、私にものを投げつけるのはいつものことだ。嵐が過ぎ去るまで我慢すればそれで済む。いつもと同じように、自分の気持ちに蓋をする。


「あら、嫌だ。せっかくの辺境伯がみすぼらしくなってしまったわ。今日は、いいことがあったからこのくらいで許してあげる。新ランパデウム辺境伯様」


 母上がくっくと笑う。無様な私をみて気が済んだらしい。私はぐっと奥歯に力をいれて我慢する。


「……」

「そうそう、新ランパデウム辺境伯様にお願いがあるの」


 母上がすうっと口角を上げて目を細める。これは何かよからぬことを考えついたときの顔だ。


「あの、うるさいソフィアを追い出して欲しいのよ」


私は慎重に母上の言葉の意味を考える。真意がはかれない。言葉を選びながら、拒否する。


「…… それは私には出来ないと思います」

「知っているわよ。別に今すぐって言っているわけじゃないわ」


 少しして、母上は眉をすこし下げながら口角を上げた。本当に自分にとって気に入る答えを思いついたようだ。


「……?」

「100日あげる。その間に、追い出しなさい」


―― はぁ? 100日あってもできるわけない!


心の中で反論しながら、無表情の顔を母上にむける。


「それは 出……」

「出来る出来ないという話じゃないわ。100日も猶予をあげるのだから、追い出すこと。いいわね?」


母上は、私の言葉なんか必要としていなかった。


「…… 第二夫人は?」

「明日から別邸に行くと言っていたわ」

「別邸に?」

「そうよ。旦那様と過ごした思い出の別邸で過ごしたいですって……。まったく、いちいち癪に障る言い方をする。でも、顔を見なくて済むなら、良としようかしら。それに、別邸に制裁の雷が落ちて火事になるかもしれないしぃ……」


 母上が意味ありげに上目遣いでわたしを見る。別邸に火を放てと言いたいのだろう。でも、そんなことが出来るはずはない。別邸は、別名ソフィアの館だ。ソフィアの息のかかったもので固められている。守りも強固で攻め入ることもできない。


 確かに、ソフィアには今まで散々苦しめられてきた。毒を盛られるのは日常茶飯事だったし、私の身代わりに護衛が死んだこともある。だから憎いかと聞かれれば憎い。でも、だからといって、ソフィアに同じことをするのは間違っている。そんなことは絶対にしたくない。そう言いたいけれど、ぐっと我慢する。


「雷?」

「そうよ。旦那様が亡くなってすぐに司祭のところを個人的に行くなんて、ふしだらだと思わない? それも悲しみの黒い紗のベールもつけず、町娘のようなお忍びの恰好をして……」

「……」


 母上だって司祭のところを訪れたのに、そんなことを言う? そう聞き返したいけれど、私は黙って聞いていた。調子に乗って母上は、ソフィアの悪口をさんざんに並べる。もし、耳を塞ぐ道具があるならば、今すぐにでもつけたい。私は頭の中でウサギの数を数えることで母上の言葉を聞かないようにした。


「……、聞いている?」

「……はい」


 母上が何か思いだしたかのように、扇を持ち上げると、ポンっと手を叩いた。でも、私にはわかる。今、思いだしたんじゃない。自分の意見を通すための演技だ。いつもながら見え透いている。さっきのソフィアの件はフリで、これから言うことが本題だ。私は、お腹にぐっと力を入れた。


「そうだわ。王立学院は自主退学の手続きをとって」

「はい?」


 王立学院を自主退学? 今、聞き間違えた? 私は、豆鉄砲をくらった鳥のような間抜けな顔をしたようだ。母上が、眉が少しあがった。


「だって、無理でしょ?」

「まだあと1年残っています。それに、今年、執行委員に抜擢されたので、やっと第二王子の派閥に入ることができるようになったのですが……」


 王立学院だけはどうしてもやめたくない。私は、珍しく必死になった。


「そうなんだけど……」


 母上は誤魔化すように、扇をいじり始めた。


「第二王子の派閥には、近衛師団長の息子や、公爵令嬢もいます。人脈としては押さえておいたほうが、母上にも良い結果となると思います。」


 この屋敷は息が詰まる。私のことを嫌っている父上。自分の必要な時だけ呼びつける母。私が亡き者にしようと企む第二夫人。なにかにつけてギルバートと比べる長老達。胡散臭い教会の司祭達。王立学院に通っている時間だけが、息ができる時間だった。


 ―― どうにかして母上の気持ちを変えてもらわなくては! 


 私は必死になって、王立学院に通うメリットを話した。


「それはそうなんだけれど・・・・・」


 私の話を聞いていた、母上の歯切れが悪くなった。


「ソフィアが言ったのよ」

「はい?」

「『もしもジュリアン様が辺境伯になられたとしたら、王立学院はおやめになった方がよろしいわ。ルシュディールもそう思うでしょ? やはり、辺境伯はずっと領内にいて頂いた方が、みな安心しますもの。どうしても王立学院に通われるというなら、ギルバートを辺境伯代理に任命していただけます? ギルバートならちゃんとできると思いますわ』ってね」

「それで?」

「ギルバートを辺境伯代理になんかできるわけないじゃない!」


 母上が持っていた扇を力いっぱい投げつけた。扇は私の頬をかすめる。


 ―― 痛い


 頬に手をあててみてみると、手のひらに血がついている。私はハンカチで手をふくと、私の隣に落ちている扇をひろった。母上は、いらいらした風に爪を噛むと、呼び鈴を鳴らした。


「せっかくの気分が台無しだわ。……ウォルター、いるんでしょ?」


 母上が、父上の家令だったウォルターの名前を呼んだ。すぐに扉が開いて、ウォルターが頭を下げる。いつも父上の後ろを歩いていた灰色の髪の背の高い男性だ。細い銀色の眼鏡越しに睨まれてとぞくりと寒気がする。思わず立ち上がりそうになった。


「見てたでしょ? ジュリアンが、旦那様の形見の箱を開けることができたわ」

「……さっそく手配してまいります。この部屋は辺境伯様の執務室です。奥様は用が終わったのならば退出なさることをお勧めいたします」


 静かに頭を下げているけれど、母上に出て行けと言っている。


「やあねぇ、わかっているわよ」


 母上はそそくさと立ちあがると、いそいそと部屋を出て行った。残された私は、困った表情をウォルターに向けた。帰ってきたのは冷たい視線。私のことを拒絶するような冷たい態度。ウォルターは一礼するとそのまま出て行ってしまった。


 私は誰もいない執務室のソファーに座り込んだ。


 テーブルの上に置かれたままの父上の形見の箱。どれだけ後悔してもしきれない厄禍の箱。


 父上は死んでからも私のことを苦しめる。何もかも中途半端で母上の傀儡だった私を、石ころを見るような無機質な目で見ていた父上。それを思い出すと、急にこの執務室も、座っているソファーでさえも私を認めてくれないような気がしてくる。


 ―― はあぁ……


私は一つ大きくため息をついた。


これからどうなるんだろう? 何もしないままだと、今までと同じ母上の傀儡だ。行きたい王立学院に行かせてもらえず、ソフィア排除のために手を汚さなくてはいけなくなる。一度、悪事に手を染めれば、もう引き返せなくなるだろう。


 ―― それは嫌だ。絶対に嫌だ。


どうすればいい? ……私はどうしたい?

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