第一部 

第2話 辺境伯(1)

コトリ。


 母上が、私の前に手のひらほどの少し小さめの木箱を背の低いテーブルの上に置いた。


 大事な話があるから執務室に来るように言われてやってきたが、ソファーに母上が一人腰掛けていただけだった。初めて入る執務室は、殺風景な部屋だった。オーク材で作られただろう応接セットが一つ。机が一つ。机の後ろには本棚があった。父上に嫌われていた私は執務室に足を踏み入れたこともなかったから、すべてが物珍しかった。本棚には何が入っているんだろう? そんなことを思いそうになったが、ぐっと気を引き締める。


 私は黙って母上の前のソファーに座り、木箱と母上を交互に見た。月紫葛つくしかずらつたが絡まっている図案の彫刻がされているだけのなんの変哲もない木箱。精巧な図案だが、派手好きな母上には不似合いだ。一目で母上のものではないことがわかる。私は怪訝な顔をして母上を見た。


「開けてみて」


 呼びつけて何の説明もせずに命令するのはいつものことだから、私は小さくため息をつくと、木箱を開けた。


 中には、小さな青い魔石の指輪と、拳ほどある大きな魔石が入っていた。

 

 指輪はどこかで見たことがある。私を抱きあげてくれたようなおぼろげな記憶がよみがえる。あれは、誰だったのだろう? 考えてもすぐに答えが出そうもないので、指輪から魔石に視線をずらした。


 魔石は赤色に輝いていたが、その赤は目まぐるしくその深みと色合いを変える。むくげのような桃色に近い赤をしているかと思うと、薔薇ばらのような黒っぽい赤になったり、紅花べにばなのようなオレンジがかった赤になったり、葡萄風信子ムスカリのような紫になったり……。まるで炎を閉じ込めたようだ。この魔力の持ち主の凄さが伝わってくる。赤い魔石ということは火の魔物だ。


 ―― レッドベア? それとも スコーピオン? 赤トカゲ? 


 魔石の正体がわからず、私は首を振った。蓋を閉じて、母上のほうに木箱を戻した。


 一体、母上は何をしたいのか? 父上の部屋だった執務室に呼びつけてわざわざ私への贈り物であるはずがない。そのくらいはわかる。


 母上の意図を探るように、私は母上を見た。少し灰色がかった緑の目が細められて僅かに潤んでいる。悲しみの黒い紗のベールがあるせいで表情がわかりにくいが、嬉しそうだ。


「これで、あなたがランパデウム辺境伯よ」


 ―― 私がランパデウム辺境伯? 


 辺境伯である父上が外出先で急死したのは三日前。領内は次期辺境伯決めで大騒ぎだ。私にするか、義理弟のギルバートにするか。母上も第二夫人のソフィアもわが子が正式な後継ぎだと主張した。でも、母上が騒いでいるだけで、私が辺境伯になれるはずはないのだ。今までは子どもだましのようなことをしてきたけれど、それが通用するほど世の中は甘くない。だから、議会も騎士団も認めないと思っていた。それが、なぜか決まらない。

 とうとう、司祭達が辺境伯になるにはこの条件を満たしていなければならないと先々代の辺境伯の遺言を持ってきた。


 辺境伯になる条件は、三つ。

 一つ目は直系の成人男子であること 二つ目は魔剣の所持者であること 三つ目は認められていることの三つだ。


 私もギルバートもこの条件のどれも満たしていない。三つ目の認められているに関しては何をどう認められているのかさえわからない。そこで、この条件は無効だと、母上もソフィアも騒ぎ立てている。


 なのに、私が辺境伯? この木箱との関係がわからず、私は首をかしげた。母上の目がぐっと細くなる。長い金色の髪を右手でそっと触って、その手を口元に持っていった。


「ルシュディールが言ったのよ。神殿は形見の箱を開けられたものを正式な後継者と認めるって。その野暮ったい箱は、旦那様の形見の箱よ。あなたはその箱を開けることができた。だからランパデウム辺境伯よ」

「げっ……」


 思わず、私はカエルを潰したような声を出してしまった。私は気を取り直して、咳払いをした。


「しかし、私は辺境伯になる条件を満たして……」

「ルシュディールは問題ないと言ったわ!」


 私の言葉を遮って、母上が強く言った。私は、眉を寄せた。


「……母上、司祭のところに行かれたのですか?」


 後継者問題で揺れている中、司祭を個人的に訪れるということはどういう目で見られるか母上も知っているはずだ。それなのに、母上は、司祭のところに行った?  私は不快感を隠して母上を見た。


 いつもならきちんと結い上げられている母上の髪が、わずかにほつれている。私の目が気になったのだろう。母上は、胸元部分の布を少し持ち上げた。


「いやぁねえ。ジュリアン。……ルシュディールのところに珍しい果物が手に入ったから持って行っただけよ」


 少し肩をすくめて、ふふふっと母上が含み笑いをした。


「それって……」


 母上の思わせぶりな態度に言葉を失う。ルシュディールと言えば、最近司祭になった背の高い黒い髪の司祭だ。かなりの野心家だというもっぱらの噂だ。私にまで聞こえる噂なのだから相当なものだ。

 よく見ると、母上は喪に服した女性にしては華美すぎた。

 黒ではなくて赤紫色の輝石のはいったキラキラした髪飾り。ジャスミンの香りが混ざっている香水。ジャスミンと言えば女性が男性を誘う時によく使うと聞く。

 黒いワンピースも胸元が広いうえに腰の部分がよく見ると透けている。胸元に光る首飾りも赤紫色の大きなアメジストだ。

 司祭の前で、悲しみの黒の紗のベールをとったのだろうか? 喪も明けていないというのに、もしかして、母上は司祭に迫ったのだろうか? よからぬ想像をして顔が火照る。いくら、父上のことを愛していなかったとはいえ、ありえない。ふしだらすぎる。不潔だ。


 私は、思わず凍り付くような冷たい目で母上を睨んだ。珍しく母上は一瞬たじろいだように目を逸らす。


「でも、ソフィアがいたのよ」

「司祭のところにですか? 第二夫人が?」

「悔しいけど、先を越されたわ。もっと早くに行動すればよかったわ」


 母上が眉を顰めながら言い捨てた。その時のことを思いだしたのか、機嫌悪そうに腕を組んだ。


「なれなれしそうに手を繋いで名前を呼んでいたわ。喪も明けていないのに、あからさまに誘うような薄いピンクのワンピースを着ていたのよ? ありえないと思わない? 胸元にピンクのリボンをつけて馬鹿みたいに大きい胸を強調して、……あれでよく旦那様だけを愛していると言えたものよね」


 母上はソフィアのことを嫌いというより憎んでいる。出自も、媚びるような声も、清楚風な服装も、息子のギルバートも、なにもかも。


―― 同じ穴の狸同士で、馬鹿々々しい。


 私は愛想笑いを顔に張り付けて、心の中で罵った。母上とソフィア、外見は対照的に見えるが、やっていることは同じだ。二人のまわりには利権を欲する男が群がり、気に入らないものはどんな手を使ってでも排除してきた。呪い、恐喝、賄賂……。考えるだけでもぞっとする。

 そんな二人が野心家の司祭のところで鉢合わせした。お互いどんな顔をしていたのだろう? 少し見てみたい気もするが私には関係ないことだ。それよりも重要なのは話の内容だ。


「司祭のところで、母上と第二夫人と話されたのですか?」

「気に入らないけれど、仕方ないじゃない。まあ、おかげで、あなたがランパデウム辺境伯に決まったから、感謝しなきゃいけないのかしらぁ?」


 母上は、扇を取り出すと、口元にあてた。小さく肩が震えている。嬉しくて口元がほころぶのを隠しているに違いない。でも、私には納得がいかなかった。


「私にはこの木箱とランパデウム辺境伯の繋がりがよくわからないのですが?」

「その木箱が、教会が示してきた条件の『認められているもの』よ」


 ―― そういうこと?!


 なぜ、もっと木箱を開ける時に考えなかったのだろう? まんまと母上にしてやられた。自分の甘さを呪いたい! 


 迂闊すぎた! 私は母上に見えないように、膝の上に乗せていた拳をぎゅっと握りしめた。これでは、母上の思い通りではないか。このまま傀儡を続けて、なりたくもない辺境伯にならなくてはいけないのか? 


 さらに拳をきつく握りしめる。母上に私の気持ちを悟られてはいけない。私はなるべく無表情を保とうと試みる。


「あら、嬉しくないの? 辺境伯になれることが決まったのよ?」

「……実感がわかないだけです。本当にこの木箱を開けるだけで辺境伯になるのでしょうか?」

「ルシュディールがそう言っていたから間違いないわ」

「私は他の条件を満たしていません」

「ルシュディールがそう言っていたからいいのよ」


「議会や騎士団は私を認めてくれるでしょうか?」

「ルシュディールがなんとかするでしょ」


「しかし、私はおん……」

「いいのよ!」


 私の言葉を最後まで聞かずに、イラついた声で母上が答える。触れてはいけない話だった。私は話をかえることにした。気になるのはギルバートのことだ。


「ギルバートもこの木箱を……?」

「そんなこと知らないわよ」


 ギルバートという名前を聞いて、イライラが爆発した。母上がテーブルの上にあった紅茶のカップを私に向かって投げつける。


「あなたが開けられれば、辺境伯として認めるとルシュディールもソフィアも言ったのよ! だから、何も問題ないの! これ以上いらいらさせないで!」







 

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