水底の夢


 澄んだ水の中で、目が覚めた。

 呼吸はできないはずなのに、息苦しさはない。寒さも、冷たさも、痛みも、何も無かった。

 ただぼんやりと、両手両足を広げて、ゆっくりと水底へと沈んでいく。

 静かだった。

 ばたばたと屋根を叩く雨の音も、ごうごうと荒れ狂う水流の音も、水に沈んだモノが吐き出すごぼごぼという泡の音も聞こえない。

 水底は、ぼんやりと白く輝いていた。

 そこに、真珠色の髪をした娘が、うずくまっている。

 まだ若い。二十歳になるかならないかというところだろう。

 美しい娘だった。肌は透き通るように白く、大きな瞳は晴れ渡った日の空の色。下半身が蛇のようでなければ、村の男たちがこぞって求婚しに押しかけるだろう。

 娘は長い尾を折りたたみ、人間で言えば膝にあたる部分に、赤ん坊ほどの大きさの卵を抱えていた。

 卵には大きくひびが入り、白く輝く娘の周りで唯一灰色に沈んでいる。

 その卵を愛おしそうに撫でながら、娘は子供のように泣きじゃくっていた。

 ────返せ。私の娘を、あの娘を返せ。

(ああ…………)

 そこで、私はようやく気づいた。

 この娘が水竜さまなのだと。村長の息子は水竜さまの眠りを妨げたのではなく、水竜さまの大切な娘御の命を奪ったのだ。

 水底に向かって手を伸ばす。私はただの村人だが、子供を失った嘆きなら理解できる。


 水竜さま、私も娘を失いました。十五の時です。初めて孕んだ子供でした。生まれ落ちた時にはもう息がなく、私が腕に抱いた時にはもう彼方へ旅立った後でした。

 夫は娘を一目見て、「なんだ娘か」と吐き捨てました。「次はきちんと男を産めよ」とも言いました。

 殿方にとって、跡取りとなる男児は何よりも大切なのでしょう。ええ、それは私にもわかります。

 初めての子を喪った私を、たくさんの人が慰めてくれました。

「まだ若いのだから大丈夫」

「次はちゃんと産めるよ」

 違うのです、違うのです。

 跡取りを産むのが女の役目、それは私もわかっています。だけど私は、まだ見ぬ息子より、この手で抱いたあの娘が欲しかった。

 あの娘の可愛らしい声で「母様」と呼ばれたかった。

 あの娘を連れて祭りに行きたかった。

 あの娘の髪を結い上げたり、着物を見立ててやりたかった。

 年頃になった娘が恋に悩んだ時に、母親として相談に乗ってやりたかった。


 目蓋が熱い。

 水竜さまが嘆き悲しむ姿を見ていたはずなのに、水の中で涙を流せるのが不思議だった。


 水竜さま、わたしは今年で三十になりました。あれから子供は孕んでいません。

 最近、村の人たちが夫を憐れんでいることを知りました。

 三十近くになっても男児を産めない外れの嫁を引いたのだと。

 今からでも離縁して、若い女に跡取りを産ませたらどうだと、冗談交じりに言う人がいました。

 私は夫に「死ね」と言われました。「死んでくれ」ですらなかったのです。

 水竜さま、女の命とは、一体何なのでしょう?


 水底でうずくまっていた水竜さまが、顔を上げた。

 目が合う。一度驚いたように大きく目を見開いて、それからぐしゃりと顔を歪めた。

 それは、まるでやっと母親を見つけた幼子のようだった。同時に、迷子になった我が子を見つけた母親の表情でもあった。

 きっと私も、同じような顔をしているだろう。



 水竜さまが、私に手を差し伸べてきた。

 私はゆっくりと、水竜さまの胸の中へと沈んで行った。










 








 ────水竜の池に、村の女が沈んだ後。

 雨の勢いは、さらに強くなったという。

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水竜の涙 三谷一葉 @iciyo

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