水竜の涙

三谷一葉

生贄の女

 水竜さまの、お怒りに触れた。


 村の外れ。森の奥にある洞窟。その中に、水竜さまがおやすみになる池がある。

 水竜さまがお住いになる神聖な場所だ。村の子供たちは、決して近づいてはいけないのだと、親に言い聞かされて育つ。

 それなのに、よりにもよって村長の息子とその取り巻きが、度胸試しと称して水竜さまの池に石を投げ込んだのだ。

 次の日から、村の空は黒い雲に覆われた。

 激しい雨が続き、種は流され、芽は沈み、やがて根が腐り溶け落ちて水に混ざる。

 雨はなかなか止まなかった。これが水竜さまのお怒りだと気づくまで、村長の息子の取り巻きが己の悪行を白状するまで、一月も掛かっていた。

 このままでは村が滅んでしまう。

 どうすれば水竜さまのお怒りが解けるのか、村の大人たちは頭を抱えていた。


 ばたばたと、水が屋根を叩く音がする。

 長い話し合いから帰ってきた夫は、まるで親の仇でも見るかのような目で、私を睨んでいた。

「村のためだ。死ね」

「わかりました」

 水竜さまのお怒りを鎮めるために、村から一人生贄を出す。

 その生贄に、私が選ばれた。


 染みひとつない白い絹の着物。髪には布で作った白い花飾り。

 しっかりと身を清めて、顔や体に白粉をはたいた。唇には紅を引く。

 花嫁衣裳を着た時よりも着飾って、私は水竜さまの生贄となった。

 生贄を捧げる儀式は、本来ならば、水竜さまの池の前で行うべきなのだろう。

 だけど、洞窟の中は外よりも激しい雨が降っていた。

 儀式のために集まってきた村の男たちは、入口を少し覗いただけですぐに頭を引っ込めて、これじゃあ無理だと首を横に振った。

 だから、儀式は洞窟の入口で行われた。

 村長が水竜さまへの無礼を詫びて、どうかこの生贄でお怒りを鎮めて欲しいと祈りの言葉を呟く。

 そして、青ざめた顔をした村長の息子が、手にした短刀で私の腹を突き刺す振りをした。

 本来の儀式なら、私は腹を裂かれた後に、村の男たちの手で池に突き落とされるはずだった。

 だけど、ここから池までは距離がある。これから私は、あの豪雨の中を一人で歩き、水竜さまの池まで辿り着かなければならない。

「すみません」

 村長の息子が、掠れた声でそう言った。

 私は小さく首を横に振る。笑ってやることはできなかった。

 生贄を捧げると決めた時、彼はならば自分がと名乗りを上げたらしい。だが、村長が反対した。大事な跡取りを生贄にはできないと言うのだ。

 他の取り巻きたちも似たようなものだった。

 だから生贄は、男を除いた、村の女の中から選ばれた。

「さあ、早く水竜さまの元へ」

 村長に半ば押し出されるようにして、私は洞窟へ足を踏み入れた。



 滝のような雨が降っている。

 洞窟の中は真っ暗だった。だけど、明かりがあったところでなんの意味もなかっただろう。

 叩きつけるような激しい雨のせいで、ほとんど目を開けられない。呼吸すらあやしい。

 せっかく化粧をしたのに、全て水に流され溶け落ちた。

 綺麗な花飾りは、いつの間にか髪から外れて、濁流の中に沈んで行った。

 最初は足首までしかなかった水が、今は膝の高さまできている。

 何度も押し流されそうになった。岩壁にしがみつき、這うようにして何とか進む。

 指先の感覚はもう無い。雨は酷く冷たかった。長い間水に浸かっていると、寒さではなく痛みを感じるようになってくる。

 染みひとつなかった絹の着物は、きっと無惨な有様になっていることだろう。

 それでも進まなければ。

 まだ水竜さまの池までたどり着いていない。

 不意に、足元から地面の感触が消えた。ぞぶりと背筋が凍るような音がして、私の身体は水の中に沈んでいった。

 ごぼごぼと泡が弾ける音がする。口の中に、苦い水が容赦なく流れ込んできた。

 吐き出したくても辺りには水しかない。腹が水で膨れていった。

 身体が重くなっていくのがわかった。腕を振り回しても、足をばたつかせても、水面はどんどん遠くなっていく。

 今の私は、きっととても醜いだろう。

 髪は乱れ、化粧が剥げ落ち、ぼろ雑巾のようになった着物を身につけ、水で腹を餓鬼のように膨らませた女。

 こんな醜い生贄で、水竜さまのお怒りを鎮めることができるのだろうか。

 私は水竜さまの池までたどり着けたのだろうか。

 そんなことを思いながら、私は意識を手放した。

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