(7)パンに願いを

 皆様ご存知のように、パン屋の朝は早い。


 午前四時には起きて焼き始め、できたてのパンを店頭に並べ終えるとすぐに開店。そこから昼頃まで忙しさのピークが続く。


「ふああ……つかれた」


 私がようやくカウンターへ突っ伏して一息つけたのは午後一時。高1の春休みなんてどうせヒマなんでしょうと母に言われて始めた実家でのアルバイトが、まさかこんなに大変だなんて思っていなかった。


 とはいえ、お客さんの少なくなった残り二時間の店番は楽ちんだ。カウンターに顎を乗せて、ぼやっとしていれば時間が勝手に過ぎていく。


「…………おっ」


 だらけた視線の先に見つけたのは、車道を挟んだお向かいにある古本屋。換気のためだろうか、あけっぴろげにされた扉の向こう、ちょうど私の真正面にあちらのカウンターもあった。


 私が生まれるずっと前からあるそのお店に今さら目が留まったのは、店番がいつものお婆さんではなく、若い女性(と言っても私よりは年上だ)に代わっていたからだ。


 あちらも暇な時間帯なのだろうか。退屈そうに頬杖をつきながら、片手で文庫本をめくっている。長い黒髪が外からの風にサラサラと揺られている様子が穏やかで、なんだかそこだけ時間がゆっくり流れているように思えた。


「大人の女性って感じ……」


※ ※ ※


(おっ、今日はゆったりした毛糸のセーターかぁ。昨日のワンピースもだけど、ちょっと大きめの服が好きなのかな?)


 一度意識すると気になるもので。いつの間にか、朝の仕事が一段落したところで向かいのお姉さんの様子をこっそり眺めるのが私のルーチンになっていた。


「……あっ、珍しい。向こうにお客さんだ」


 我ながらずいぶん失礼な物言いだが、私が店番(という名のお姉さん観察)をしている間に、あちらの来客を見かけたのは実際三日ぶりである。


 その男性は、入口近くの本をいくつか手にとっては棚に戻しを繰り返しながら、時々カウンターで読書に耽るお姉さんをチラチラと見ているようだった。


(なんだろ? もしかして、本じゃなくてお姉さん目当て……?)


 と思ったが、どうも動きが怪しい。……まさか、と思った瞬間、男は大胆にも三冊まとめて服の下へ仕舞い込んだ!


「えっ!? わ、わっ!」


 万引きの現場を目撃してしまった私は思わずその場に立ち上がったが、こういう時、一体どうすればいいのか分からない。


(警察!? そんなことしてる間に逃げられちゃう! 直接行って……だめ、横断歩道まで迂回してられない! えっと、えっと……!)


「あっ!」


 そうだ、とカウンター上の受話器を手に取った。短縮ダイヤルに登録してあるご近所のお店の中から、お向かいの番号を探してボタンを押した。


 呼び出し音が鳴る。


 お姉さんが本から顔を上げ、あちらのカウンターにある受話器を持ち上げるのが見えた。


「どっ、泥棒! お店にっ、泥棒がっ!」


 慌ててしまって上手く伝えられない。


「ドロボウ?」


 お姉さんが電話口でオウム返ししたその言葉が自分に向けられたものだと思ったのか、万引犯は一瞬ビクリと震えると、懐の本をその場に撒き散らして一目散に店を飛び出していった。


「……ん〜?」


 物音に気付いたお姉さんが受話器を置いて様子を見に行くのが見えたので、私はホッと胸を撫で下ろして電話を切った。


「……あ〜、びっくりしたぁ……」


 まだ胸がドキドキしている。まさか、こんな経緯でお姉さんとお話しすることになるなんて……。


"プルル……"


「うわっ!」


 切ったばかりの電話が突然鳴ったせいで椅子から転げ落ちそうになった。……恐る恐る受話器をとる。


「やっほ〜」


 さっき聞いたばかりの声。顔を上げると、道路の向こうからお姉さんがニコニコとこちらに手を振っていた。……いや、まあ、着信履歴が残ってるんだから、そりゃあかけ直してくるよね……。


「あ、あのっ……大丈夫でしたか? あの、本……」


「うん、おかげで助かったよ〜。ありがとうね〜」


「あっ、はいっ、それは何よりですっ!」


「それでね〜、お礼がしたいんだけど、あと一時間くらいでそっちのお仕事終わるでしょ。そしたらこっち来られる〜?」


「え、なんで私のバイトの時間知ってるんですか!?」


「なんでって、いつも働いてるところ見てるから〜。朝いつも忙しそうだね〜」


 ……こちらから見えるということは、向こうからも見える。当たり前のことに今さら赤面した。

 

※ ※ ※


「こ、こんにちは……」


「は〜い、いらっしゃい」


 私服に着替えて来店した私を、お姉さんは相変わらずニコニコしながら出迎えた。


「さっきは本当にありがとうね〜」


「い、いえ」


「それで、お礼なんだけど……よく考えたら私、あなたのことなんにも知らないから〜。どうしようかな〜って」


 のんびり屋というか、マイペースというか。外見通りのおっとり加減だ。


「お礼なんてそんな……。あ、そういえば、前に店番されてたお婆さんは……?」


「あ〜、お婆ちゃん、もうトシだから隠居するんだって。でも、せっかく何十年も続けたお店だし、閉めるのもったいないから私が継ぐよって言ったんだ〜。本も好きだしね〜」


 なるほど、謎が解けた。


「ところであなた、お名前は?」


「は、はなです」


「ふふっ、下の名前で呼んでもいいんだ」


「だ、だって『お名前は?』って訊かれたから……!」


「私はしずかで〜す。花ちゃん、よろしくね〜」


 その自己紹介は、つまり私にも下の名前で呼べということだ。


「よ、よろしくです……静さん」


「そうそう、お礼だよね〜。と言っても、ここには古本しかないけど。……どう? ざっと見てみて、どれか読んでみたい本ある? 気に入ったのあったら一冊あげるよ〜」


「えっ、そんな、悪いですよ」


「あはは、お礼は悪くないよ〜」


 親切心を無下にするのはよくないかなと、とりあえず棚に並んだ大量の本を見渡してみる。みんな出身地が異なる古本だけあって、並んだ背表紙の高さも、色褪せ具合や痛み方もみんなバラバラだ。


 ……困った。


 年代やジャンルも幅広すぎて、普段ほとんど読書をしない私にとっては、選ぶ基準からして分からない。


「あ~、ごめんね。いきなり選べって言われても難しいよね。それじゃあ……これなんてどう?」


 と、お姉さんが棚から取り出したのは『パンに祈りを』というタイトルの小説だった。本の薄さと挿絵のタッチからすると、児童文学だろうか。


「これ、食べると何でも一つだけ願いごとが叶う不思議なパンのお話でね〜。私、子供の頃から好きなんだ〜」


 いかにも読みやすそうな本。しかもパンの話。お姉さんが、私のことを考えて選んでくれたのだ。


「あ、ありがとうございます! 家に帰ったらさっそく読みます!」


「ふふっ、こちらこそありがとうね〜」


※ ※ ※


"これは想像していた以上の、まるで宝石のように美しいパンだ"


"君は、このパンを食べて何を願うんだい?"


"さあてね。少なくとも、世界平和よりも自分のための何かだろうね"


 ページをめくる度に不思議なパンをめぐる冒険の世界が広がり、退屈な午後の店番の時間が鮮やかに彩られていく。


「……はぁ〜っ」


 最後のページを閉じると、私は目を瞑ってしばし余韻に浸った。文字の組み合わせだけで、どうしてこんなに壮大な景色や美しい音楽が頭の中に描き出されるのだろう。小説って、こんなにワクワクするものだったんだ。


「…………」


 ゆっくりまぶたを開くと、道路の向こうに静さんの姿が見えた。今日も頬杖をついて読書に耽っている。ひとつの冒険を終えた私には、彼女を囲う無数の本たちが様々な世界へと続く扉のように見えた。


「……次の本、買いに行こうかな」


※ ※ ※


(この本も、すっごく面白かった……!)


 これでもう六冊目。静さんにオススメされた本には本当にハズレが無い。おかげで最近はすっかり本の虫だ。ううん、それだけじゃない。読んだ本の感想を静さんと話し合う時間が、読書と同じくらいに楽しかった。


「また次の本、買いに行かなくっちゃ。それに……」


 カウンターの裏に仕舞っておいた小箱に手を触れた。


「喜んでくれるといいな」


 静さんのことを思いながら顔を上げると、お向かいに(私以外の)久しぶりの来客が見えた。今日やってきた男性はどうやら泥棒ではなさそうだったが、しかし普通の客とも思えない。なぜなら、その手に薔薇の花束が握られていたからだ。その人は何度も店の前を往復してから、意を決して静さんの元へ向かった。


※ ※ ※


「あの……こんにちは」


「あ、花ちゃん。いらっしゃ〜い」


 カウンターの上……花瓶に薔薇が咲いていた。静さんの様子はいつもと変わらない。さっきの男性のことを尋ねてもいいのだろうか、と迷っていると。


「もしかして気になる? さっきの人」


「あ……はい」


「この間、あの人とお見合いしたんだ。そういうの、近頃は流行らないんだけどね〜。お婆ちゃんがどうしてもって言うから」


「……そうなんですか」


 心がざわついた。静さんはお嫁になんて行かない……なぜか根拠もなくそう思い込んでいた自分に動揺した。


「お婆ちゃんさ、私が無理してこの店を継いだと思ってるんだよ〜。だから、ここを畳むためにも早く身を固めさせてあげなきゃ〜って」


 静さんは苦笑した。


「でも会ってみたら、すごく真面目な人でね〜。さっき見たでしょ〜? なかなかお店に入れなくって、何回も往復して……フフッ」


 ……どっちなんだろう。


 静さんはどっちを選ぶんだろう。


 怖くて訊けなかった。


「……あれ? もしかしてこの間の本、もう読み終わった?」


「あっ、はい。すごく面白かったです。静さんの勧めてくれる本はどれも読み始めると止まらなくって。……あの、それで、今日はお礼にと思って……これ」


 持参した小箱を静さんに手渡した。まだ、ほのかに温もりが残っている。


「開けてもいい?」


 頷くと、静さんは丁寧にシールを剥がして蓋を開くと、わあっ!と声を上げた。


 円形に焼いた厚いパン生地の上に、マスカットやチェリーを乗せて彩ったお手製のパン。


「フルーツが宝石みたい……! これ、『願いが叶うパン』だよね!」


「は、はい。小説の挿絵を見て、材料を想像しながら作ってみました」


「うわ〜すごい! ……ね、食べてみていい?」


 はい、と答えると、静さんはパンを綺麗に二つに割って私と半分こにした。


「ん〜〜〜! おいし〜〜〜!」


 静さんの幸せそうな顔を見ると、がんばって作ってよかったなと思う。


(……ん、おいし)


 我ながら上手くできている。お母さんがいつも口酸っぱく言っている「おいしさの秘訣は食べてくれる人への愛情」というのは、どうやら本当みたいだ。


「花ちゃん、ありがとうね〜! すっごくおいしかったし、憧れのパンが食べられて本当に嬉しい!」


「喜んでもらえてよかったです」


「じゃあ、さっそく願い事をしなきゃね」


「えっ?」


「だって、願いが叶うパンでしょ?」


「そ、それはそうですけど……」


「でも、ふたりで食べちゃったからなぁ。私と花ちゃんの願い事が同じだったらいいんだけど」


 ……私の願い事。


 それは……。


「もうちょっと、このお店を続けていたいな〜!」


 静さんはそう言って、目を丸くする私にいたずらっぽくウィンクした。


「ふふ、同じだったかな?」


 ……ああ、この人はいつも私が読みたい物語を知っているんだ。


 さあ、ふたりで次のページをめくろう。


-おしまい-

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

ゆりのたね。 権俵権助(ごんだわら ごんすけ) @GONDAWARA

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ