(6)美しい人形

「おはようございます、先生」


「やあ、おはよう。今日も君は美しいね」


 仕事部屋を訪れた私に先生は微笑んだ。


「朝食、ここに置いておきますね」


 ベーコンエッグとミルクを載せたトレイをテーブルの上に置き、私は先生からよく見える位置で椅子に腰掛けた。今日の出で立ちは、新しく仕立ててもらった純白のドレス。先生がこちらを見てニコリと笑った。


「先生、今日はいかがしますか?」


「うん。そこに座ったまま笑顔を見せてくれ」


 私の問いに、先生は上機嫌で答えた。


 先生の要望に応じて、時に笑い、時に踊り、時にスカートを翻して回ってみせる。彼女の目を楽しませるのが私の仕事だ。


 これは人間からすると辛い仕事なのかもしれないが、人形である私にとってはそうではない。むしろ、愛する先生と静かに同じ時間を過ごせることは幸せだった。


 人形作りを生業とする先生は、この人里離れた山小屋を仕事場に選んだ。先生は人と接することを好まない。正確に言えば、人にその姿を晒したくないのだ。


 以前、私は先生に尋ねたことがある。


「先生は、どうして美しい女性の人形だけをお作りになるのですか?」


「それは……私が美しくないからさ。ゆえに、理想の美しさを求めて人形を彫っている。手に入れることはできなくとも、生み出すことはできるからね」


 人形である私には美醜が分からない。


 けれど、汗を流して一心不乱に人形を彫り続ける先生の姿は、きっと美しいのだろうと思える。


※ ※ ※


「うん、なかなかの出来だ」


 夕刻。二週間前から取り組んでいた新作が完成した。バレエダンサーをモチーフにしたその人形は、スラリと伸びた手足の先にまで細かな装飾が施されていた。


「悪いが、作品を倉庫に運んでおいてくれるかい?」


「かしこまりました」


 私は人形を慎重に持ち上げ、小屋の外にある離れへと移動させた。元々はゲスト用の別館だが、来客が無いために作品を保管する倉庫として使われている。そこに並べられた百体近い作品たちを見て、つい意地の悪い笑みが浮かんだ。

 

 先生が創った作品の中で魂が宿ったのは私だけだ。ここに並んだ物言わぬ人形たちはすべてその域に達していない。先生から最も大きな愛を受けたのは私であり、その愛を返す術を持つのも、また私だけなのだ。


 誰にも邪魔されない、先生と私だけの蜜月の時間。


 私の美しさは、先生のためだけにある。


※ ※ ※


 しかし。


※ ※ ※


「……先生、お食事をお持ちしました」


 返事はない。朝食を載せたトレイを仕事部屋の前に置いて居間に戻ると、少しして戸が開く音がした。……あと一時間ほどしたら、食器を取りに行こう。


 ある日を境に、先生は一人で仕事場に籠もるようになった。予兆はあった。最近、仕事中の私への要望が目に見えて減り、踊ることも笑いかけることも無くなっていたし、目が合う回数も随分と減った。


 どうして私を避けるのですか、とは怖くて聞けなかった。


 ちょうど一時間後、また戸が開く音がした。部屋の前に出されたトレイの上には、空っぽの食器と一緒に手紙が添えられていた。


"ありがとう。今日も美味しかったよ。辛い思いをさせてすまないが、私の君への愛は何も変わらない。"


 私には、その言葉を信じることしかできなかった。


※ ※ ※


 あれから、何ヶ月が過ぎたのだろうか。


 今日もいつものように食器を回収し、居間へ持ち帰った手紙を開く。この手紙だけが今の私と先生を繋ぐ、か細い糸だ。


「!」


 手紙を開いた私の手は震えていた。文体こそ普段と変わらぬ丁寧さだったが、そこに書かれていた文字はいつもより荒々しく、先生の興奮を雄弁に語っていた。


"長い間待たせて本当にすまなかったね。今晩、私の仕事は終わる。午後七時に仕事部屋へ来てほしい。そこで君の美しさは完成を見る。"


 私は手紙をそっと胸にあてた。


 ああ、先生はまだ私に愛を注いでくださっていたのだ。


※ ※ ※


 待ち焦がれた午後七時。


 私は仕事部屋の戸をゆっくりと二度、ノックした。


「先生」


 …………。


 ……………………。


 いくら待っても返事はなかった。


「先生……?」


 胸騒ぎがした。


「失礼します」


 戸を開くと、目の前に一体の人形が立っていた。眩しく輝くブロンドの髪。美しい曲線が描き出す整った顔立ち。そこに佇んでいるだけで、人々が頭を垂れて祈りを捧げる宗教画のような神々しさがあった。


 人形は静かに瞼を開いた。


「お待ちしておりました」


 私に向けられたその穏やかな微笑みは、おそらくどんな人間をも魅了するのだろう。しかし、今の私にはそんなことはどうでもよかった。


「先生っ!」


 駆け寄ったところで、部屋の奥で首に縄をかけ、ダラリと宙にぶら下がった先生の体が動き出すはずはない。呼びかけたところで、失われた命が戻ってくるはずはない。分かってはいてもそうせずにはいられなかった。


「ああ……ああ……どうして……」


 変わり果てた先生の姿を直視できずに目を逸らした。その視線の先……テーブルの上に最後の手紙があった。


"どうだい、私の新しい作品は。お気に召しただろうか。彼女が、君の美しさを完成させるための最後のピースだ。いや、誤解しないでくれ。君自身は既に完成された美しさを持っている。問題があるのはこの私だ。私のような醜い存在が君の隣にいていいはずがない。どんなに美味い料理だって、泥をかければ泥の味しかしないのだ。君の隣にあるべきは、私などではなく、君と同じく真に美しい者でなければならない。私が消え、君たちが並ぶことで、私はついに人生を賭して追い求めた究極の美を手に入れることができるのだ。どうか、どうか君たちがいつまでも美しくあらんことを……。"


 手紙を読み終えた私は呆然と立ち尽くした。そして、今もなお穏やかな笑みをたたえるもう一つの人形に向き直った。


 先生の遺言。


 従うべきだ。


 けれど、私の本心は手紙と一緒に置かれていた……いつも先生が人形を彫るために使っていたナイフを手に取らせた。振り向きざま、人形の首筋にそれを突き立て、両腕にありったけの力を込めた。傷口を中心に亀裂が四方へ枝分かれして走り、人形の華奢な体から細かな破片がバラバラと崩れ落ちた。人形が床に倒れた時、その目の光は既に失われていた。


 先生が私以外の美しさを認めたことが悔しかったのか。それとも、ただこの感情をぶつける先がそこしかなかったのか。わからない。わからないが、ただ、そうするべきだと思った。


 ふと、窓に映った自分の顔を見た。


 先生はこの私を美しいと言う。


 けれど。


 ……けれど。


 私は自分の顔にナイフを突き立てた。


 人形である私には美醜が分からない。


 だが、求める者のいない美しさに一体何の価値があろうか。


 私は、あなたがいて初めて美しいのだ。


-おしまい-

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