(5)君の空手と私の絵画。

「はじめッ!」


 審判の合図で拳を握る。


 私は白帯、相手は黒帯。同門の練習試合とはいえ、私から名乗り出なければまず組まれることのないカードだ。実力差があるのは承知の上。しかし勝ち負けなど問題ではない。私が目指すものは、もっと別のところにあるのだから。


 相手も構えた。


 女子同士とはいえ、私よりも頭ひとつぶんはタッパがある。手足のリーチも長く、大きな踏み込みから繰り出される正拳突きは想像を超えて伸びてくる。ぐっと腰を落とし、しっかりと踵を地に着けた美しい前屈立ち。二の腕から拳の先までまっすぐ水平に保たれた突きには、力強さと芸術性が同居している。その肌はフランス人形のように白く、スラリとした体型にベリーショートの髪型がよく似合っている。ああ、この瞬間を切り取っていつまでも飾っておきた……。


「ぶべっ!」


 顔面を襲った衝撃が私の意識を飛ばした。最後に目に映ったものは、体育館の高い天井と……心配そうに私を見下ろす彼女の顔だった。


 ……ああ、憂いをおびた表情もまた芸術的だなあ。


 そこで記憶は途切れた。


※ ※ ※


「わー、もう真っ暗……」


 放課後、美術部室から外に出るとすっかり日が暮れていた。筆が乗ると、いつも時間を忘れてしまう。


「お腹空いたな。早く帰ろ」


 他に誰も生徒のいなくなった校舎を後にすると、ふと体育館から灯りが漏れていることに気が付いた。こんな時間まで、一体どこの部活だろうか。気になって近付いてみると。


「やあ!」


「せいっ!」


 扉の隙間から覗きこむと、道着姿の人達が威勢のいい掛け声と共に突きや蹴りを繰り出していた。


(空手だ……!)


 門下生の年齢層は小学生からおじさん、おばさんまで様々。どうやら学校の部活ではなく、小さな道場が夜に体育館を借りて教えているようだ。


(……!)


 一人の生徒が私の目を釘付けにした。年齢はおそらく私と同じくらい。背は高く、髪は短い。けれど、そのしなやかな曲線で構成されたスマートなシルエットは紛れもなく女子だった。ただスタイルがいいというだけなら他にもたくさんいる。私が目を離せなかったのは、その流れるような所作だった。


砕破サイファ!」


 開いた掌を正面で合わせて叫ぶと、両手を体の脇へ動かし、両足と合わせて並行に真正面へと向けた。直後、左右へ交互に移動しながら「受け」と「蹴り」を繰り出した。それぞれ異なる動作なのに、元々一つの技であったかのように自然に移行していく。まるで、地形に合わせて形を変えながらも速度を落とさぬ流水のように、美しくなめらかな「型」だった。


 私はほぼ無意識に鞄からスケッチブックを取り出していた。時間なんて忘れて、ただ目に映る美しいものをそこに留めることに夢中になった。だから、急に扉が開いた時には心底驚いて尻もちをついてしまった。


「ん? 誰かね君は」


 道着に身を包んだ屈強な男性を前にして声が出なかった。いや、出たところで何をどう言い訳しても不審者であることに変わりはない。


「……ああ、見学希望だね。他の子はもう中にいるから、君も入りなさい」


「えっ」


 有無を言わさず腕を取られた私は、気付くと小学生たちに混じって体育座りで練習風景を見学していた。立派な口ひげを生やした先生の説明によると、近所の空手道場が週に一回、この体育館を借りてボランティアで教えているのだそうだ。


(なんだか変なことになっちゃったけど、近くであの子の姿を見られるのなら、まあいいか……)


 などという考えは甘かった。


「それじゃあ、せっかくだから見学に来てくれた子たちにも空手を体験してもらおうかな」


(聞いてない!)


 と言っても、ここで断れば不審者確定である。やるしかない。けれど、ただでは転ばない。


「すみません……教えてもらうなら、あの人がいいです」


 思い切って先生に訴えてみた。


「おお、ひなたちゃんか。そうだな、年も近そうだし、女の子同士の方がやりやすいか」


 意外にすんなり提案が通り、思いがけない形で彼女に接近する機会が訪れた。いざ目の前にした彼女は、遠目よりもさらに大きく見えた。


「……は、はじめまして」


 挨拶をした私に、彼女は意外な言葉を返した。


「よろしくお願いします。川原ひなたです。……あの、天野ユキ先輩ですよね。美術部の」


「えっ?」


「好きです」


「えっ!」


「いつも部室の前に展示してある絵を見て、好きだなあって」


 お、驚いた。いや、自意識過剰なんかじゃない。あんな澄んだ目で真っ直ぐ見据えられて「好きです」なんて言われたら、誰だって勘違いするに決まってる。


「それじゃ、準備運動したら早速始めましょうか」


※ ※ ※


「いった! 痛い痛い!」


「はーい先輩、もうちょっと前屈姿勢低くしましょうね〜」


「いったあ!!」


「大丈夫! 私だってできるんだから先輩もできます!」


 ……まいった。


 一時間ほど指導を受けてみて分かったが……この子、えらいスパルタだ。それも天才がよく陥る「みんなどうして、こんな当たり前のことができないの?」という無自覚タイプだ。残念ながら、この類にはつける薬がない。


「正拳突きは、こう! 拳を少し下げて、二の腕と平行にすることを意識してください。それから、引手は突きと同じ速度で戻して……」


 まあ、それはそれとして、こうして彼女が至近距離で見せてくれるお手本は実に眼福だ。まるで絵画の世界が眼前に広がっているような感動を覚える。


「先輩! 聞いてますか!」


「はっ、はいっ!」


「よし! 正拳突き50本! はじめっ!」


「せ、せいっ!」


 …………。


 ……………………。


※ ※ ※


 …………………………。


 ………………………………。


「……ふあっ!」


 目が覚めると、私は体育館の隅に寝かされていた。妙に呼吸がしづらいと思ったら、鼻にティッシュが詰められている。


(鼻血……? もう止まってる)


 ティッシュを捨て、膝を抱えて座る。組手相手の私が気絶してしまって、しかたなく体育館の真ん中で、ひとり「型」の練習に励む川原さんを見つけた。平安二段。白帯で習う基本的な型の一つだ。すべてに無駄がなく、メリハリの効いた演舞。基礎的な型ほど実力の差が明確に現れるものだ。自分のモタモタした動きと比べると、彼女の凄さがより理解できた。


「!」


 型を終え、私に気付いた川原さんが駆け寄ってきた。


「先輩、大丈夫ですか?」


「うん。えーと……」


「私の突きがモロ顔面に入っちゃって。ごめんなさい」


「あー……それ、私がアンタに見惚れてたのが原因だから気にしないで」


「……先輩のそういうとこ、ホント気持ち悪くて尊敬します」


「アンタの見た目が良すぎるのよ。その性格は嫌いだけど」


 入門してから三ヶ月が過ぎ、私達はすっかり本音むき出しで喋るようになっていた。


※ ※ ※


「先輩、ぜんぜん根性ないのによく続いてますね」


 同じ学校だけあって川原さんとは家が近く、帰りはいつも二人で歩く。


「だって、理想のモデルを間近で見られるんだから。多少しんどくてもやるわよ」


 私の欲望丸出しの返答に、川原さんはハアとため息をついた。


「……別に、絵のモデルくらいやってあげてもいいですけど」


「はぁー、分かってない! アンタはね、好きなものに打ち込んでる時の自然な姿が一番キレイなの!」


「……あの、恥ずかしいんでやめてもらっていいですか?」


「安心して。好きなのは見た目だけだから」


 今度は、ハアア……とより大きなため息をついた。


「私も先輩の絵は好きですけど、その気持ち悪いところとヘタレなところは嫌いですよ」


「じゃあお互い様だね……って、そっち嫌いなとこ多くない?」


「それで釣り合ってるからいいんですよ。じゃ、ウチこっちなんで」


「うん。また来週ね」


 …………………………。


 …………………………。


 …………………………。


「…………ぷっ」


 川原さんと別れてしばらく歩いてから、彼女の言葉の意味するところに気付いて、思わず吹き出してしまった。


「あいつどんだけ私の絵、好きなんだよ」


 まったく素直じゃないねぇ。それを言うなら、私だってあと3つか4つ嫌いなとこ増やしてちょうどいいんだからな!


-おしまい-

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