(4)夏のつばき、ふたたび
ミンミンというよりギャアギャアだ。この山奥では信じられないほど蝉がうるさい。
「お母さん、来たわよぉ」
玄関先で靴を脱ぎながら、母が大声を出して祖母に呼びかけた。
毎年、夏になると母に連れられて祖父母の家を訪れる。お盆は本家に親戚一同で集まるのが我が家のしきたりだからだ。例年と違うのは、今年は祖父がいないことだ。つい先日、老衰で失くなった。95歳の大往生だった。
「はい、いらっしゃい。あんたんとこが最後よ。……あら、さくらちゃんも大きなったねえ。もう高校生やもんねえ」
暗い廊下の奥から現れた祖母の背中は、去年見たときよりも曲がっていた。
「兄さんたち、今年は早いのね」
「去年、あんたがさんざん遅い遅い言うたからと違うの」
「なら言って良かったわね。……あら?」
母が足元の靴の数が多いことに気が付くと、祖母が先回りして答えた。
「今年はジュンちゃんとこも来とるのよ」
「そう。お父さんのお葬式には顔出さなかったのにねえ」
横で話を聞いていた私の心臓は鼓動を早めていた。
(つばきちゃんが来てる……!)
ジュンちゃんというのは母の妹で、四人兄妹の末っ子だ。つばきちゃんはその娘……つまり、私のいとこである。
私には四人のいとこがいるが、その内の三人は男で、みんな私よりも一回り以上も年上だったから、感覚としてはいとこというよりもおじさんに近かった。だから私は本家へ来ると、いつも唯一同い年のつばきちゃんと遊んでいた。
私は毎年つばきちゃんに会うのを本当に楽しみにしていた。夏休みの間しか会えない特別感もあったのかもしれない。つばきちゃんも同じ気持ちだったのか、私を見つけると駆け寄ってきて、すぐにふたりで野山に繰り出した。
ある時、山で遊んでいると頬に雨粒が当たった。見上げた空はあっという間にくすんだ雲に隠されて、冷たい雨を地上に注いだ。
夏の夕立はいつも突然で激しい。私達は慌てて大きな木陰に隠れて、身を寄せ合って雨雲が通り過ぎるのを待った。雨に濡れたつばきちゃんの長い黒髪が肩に触れると、湿った草木に熱気を溶かした、夏の匂いがした。
「帰れないね」
暗い空を見上げて呟いた私に、つばきちゃんは静かに言った。
「……もし。もしね、このまま雨が降り続けて、いつまでも帰れなかったら……夏休みが終わっても、さくらちゃんと別れなくてもいいのかな」
ふたりともいつか雨が止むことは分かっているのだから、その質問に意味は無かった。
「私とつばきちゃんが同じ家族だったら、ずっと一緒にいられるのにね」
私が返した言葉も現実にはあり得ないことだった。けれど、つばきちゃんの瞳はきらきらと温度を持って輝いた。
「じゃあ、私とさくらちゃんが結婚すればいいんだ!」
「でも、私たち女の子同士だから結婚できないよ」
「そんなことない! いとこ同士は結婚できるんだって、この間テレビで言ってたもん!」
「ええっ、そうなんだ」
「うん! だから、大きくなったら結婚しようね」
「うん。つばきちゃんとなら、いいよ!」
あの頃はまだ、いとこと性別のどちらが優先されるかなんて分からなかったから、それは本当にすばらしいひらめきだと思えた。
でもその年、つばきちゃんのお母さん……ジュンおばさんとおじいちゃんが大喧嘩をして、それ以来つばきちゃんが本家に遊びに来ることはなくなってしまった。
おじいちゃんは元々、ジュンおばさんとつばきちゃんのお父さんとの結婚に反対していたから、大人たちはいつかこうなるんじゃないかと思っていたらしい。結局、それから一年も経たないうちにジュンおばさんは離婚して、それからはつばきちゃんと二人で暮らしているのだと、後になってお母さんから聞いた。
※ ※ ※
「おお、いらっしゃい。さくらちゃんも」
広い居間で年上のいとこたちが出迎えてくれた。祖母の言う通り、既に大勢の親戚たちが集まっていた。部屋を見渡してもつばきちゃんはいなかった。代わりに、ジュンおばさんが部屋の隅で寄る辺なさそうにスマホをいじっていた。
「あの……」
話しかけるとジュンおばさんは一瞬戸惑った顔をしたが、すぐに私だと気が付いて「さくらちゃん、ひさしぶり」と笑った。
「つばきなら、隣の和室にいるよ」
聞きたかった答え。私はぺこりとお辞儀をして居間を出た。その背中に、小さく「ごめんね」の呟きが触れた。
※ ※ ※
(この中に……)
縁側に立った私が和室の障子を開けるのをためらったのは、中に明かりが点いていなかったからだ。
稲光。
一瞬照らされた障子の向こうに、長い髪の少女の影が浮かんだ。
「……入るよ」
私の声は降り出した激しい雨音にかき消されていた。
「…………」
暗い部屋から私をじっと見つめていたのは金髪の少女。両耳にはピアス。目元には濃いアイラインが引かれていた。
「ひさしぶり……だね」
私が話しかけても答えは返ってこなかった。つばきちゃんは無言のまま、ゆっくりと私の方へと歩みを進めた。
「…………」
じっと私を見つめるその瞳に、あの頃の温度は感じられなかった。
「……ねえ、さくらちゃん」
細くて白い手が私の両肩を鷲掴みにした。
「いたっ……」
「さくらちゃんは、変わってないね……」
そのまま力を込められ、私は畳の上に尻もちをついた。肩を掴んだまま、つばきちゃんは私に覆いかぶさるようにグッと顔を近付けた。
「さくらちゃん、あれからどうしてた? 私のいない時間を……どうしてたの……?」
鮮やかな金色の髪が私のお腹の上に垂れた。
「私はね、色々あったよ。……本当に、色々なことが……」
……………………。
…………長い沈黙。
逆に、雨音はその激しさを増していった。
「……ねえ、さくらちゃん。約束、覚えてる?」
彼女の瞳の水面がわずかに揺れた。その奥にある光に、私はあの頃と変わらない温度を感じた。
「結婚、しよっか」
……変わっていない。
つばきちゃんは何も変わっていなかった。
その金髪で、ピアスで、お化粧で。
一番大切なものををずっと守っていたんだね。
「……うん。しようね」
そっと、両手をつばきちゃんの背中に回して抱きしめた。その肩が何度も震えた。生きていくために着込んでいた何枚もの服を脱いで、彼女は昔のつばきちゃんに戻っていた。
彼女が背負っていた重荷も、心のままに泣く声も、すべては激しい雨音に流されていった。
私はもう一度つばきちゃんをぐっと抱きしめた。頬に触れた彼女の髪は、夏の匂いがした。
-おしまい-
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