(3)最後のドライブ
「
玄関で靴を履いている私に、見送りに来たお母さんが念押しする。
「うん、ちゃんとランドセルに入れた! じゃあ、いってきまあす!」
扉を開けると、外は緑一色。前を見ても後ろを見ても、もちろん左右を見たって山、山、山。小学一年生の時にこんなドが付く田舎に引っ越してきたのは、昔から田舎暮らしに憧れていた父の希望だった。
ところが六年生になると同時に大きな問題が発生した。私が通っていた小学校が、少子化の煽りを受けて統廃合されてしまったのだ。
「それじゃあ先生、七海をよろしくお願いします」
私に続いて表に出てきたお母さんが、家の前に止まっている白い軽自動車に挨拶をした。私が後部座席に乗り込むと、運転席のサキ
「七海、また背伸びたね」
「うん。1センチぐらい」
「1センチも!? はあ~、さすが子供は成長が早いやね。こりゃ私もすぐに追い抜かれそうだわ」
言いながらアクセルを踏み込む……と、その前にもう一度振り返って尋ねた。
「夏休みの宿題、ちゃんと持ったかね?」
「もうっ! サキ姉まで! ちゃあんと持ちました! 私、これでも最上級生なんですけど!」
「ふふっ。ま、私も"これでも"担任だからさ」
サキ姉は明るく笑うと、改めて車を出発させた。
統合された学校は家から遠かった。他の生徒はまだどうにか通える圏内だったが、田舎のさらに奥まった場所に住んでいた私だけは、バスと電車を乗り継ぎながら片道一時間以上もかかってしまう。
はてさて、子供一人でどうしたものかと頭を悩ませていたところ、さすがにそれは申し訳ないと学校側から送り迎えの提案があった。なんでも、ちょうどウチのすぐ近くに越してきた新任教師がいるというのだ。
「そういえばさあ、おばちゃんの『先生』呼び、なんとかならない? 昔からずっと『サキちゃん』て呼ばれてたから、なんかムズがゆいよ」
赤信号で停止したところで、サキ姉が苦笑した。
近くに住んでいる教師というのは、大学に入るまでうちの隣に住んでいたサキ姉だった。近所には歳の近い子供が一人もいなかったから、私の遊び相手はずっとサキ姉ひとりだった。学校から帰るとすぐにサキ姉を呼びに行って、毎日陽が沈むまで一緒に遊んでいた。
私が小1の時、サキ姉は高校一年生。彼女にとっては遊び友達ではなく子守だったと思うが、嫌な顔一つせずに相手をしてくれて、色んな遊びを教えてもらった。
だから、サキ姉が家を出ると聞いた時には本当に悲しかった。ううん、出た後もずっと悲しかった。不意にサキ姉のことを思い出すと自然に涙がこぼれて、周りの大人たちを心配させた。私にとってサキ姉は、友達とも姉妹とも違う、何にも代えられない存在なのだと、いなくなってようやく自覚したのだ。
「サキ姉が担任から外れるまでは無理じゃない? お母さん、そういうところ変にキチッとしてるから」
「うーん、転勤までの辛抱かぁ」
「転勤って、いつ?」
「わかんないけど、大体四年とか五年とか? ま、七海が中学を卒業するまでは待ってくれるらしいから、そんなに心配しなさんな」
「…………」
わかってない。
私は送り迎えがなくなることを心配しているわけじゃない。
「あ、そうだ。そこ開けてみ」
サキ姉が運転席の横にある小物入れを指差した。手を伸ばして蓋を開くと、袋の中に丸いマカダミアナッツチョコレートがぎっしり詰まっているのが見えた。
「ハワイのお土産。食べていいよ」
「え~! ハワイいいな~!」
と、チョコをひとつ頬張る。溶け出した甘みがじわじわと口の中に広がっていく。
幸せだ。
チョコのことじゃない。学校に着けば「お菓子の持ち込みは禁止!」「登下校中の買食いはダメ!」と口酸っぱく言うべき立場であるサキ姉が、私にだけは先生という立場を忘れて、こうして飾らない姿を見せてくれている。それが嬉しかったのだ。
「私にもちょーだい」
運転で手が離せないサキ姉が、あーんと大きく口を開けた。ひとつ摘んだチョコレートをその口元に持っていく。ぱくんと閉じた拍子に、柔らかい唇がかすかに私の指先に触れた。
「!」
手を引っ込めた私はうつむいて、バックミラーに頬の色が映らないようにした。
「間もなく学校~、学校に到着いたしま~す」
サキ姉がおどけてアナウンスのモノマネをした。車が止まれば、サキ姉と私は先生と生徒の関係になる。
家から学校までの間にだけ存在する、特別な時間。
クラスメートたちはみんな、毎日代わり映えのしない学生生活に飽き飽きしている。でも、私はこの毎日がいつか終わることの怖さにおびえていた。
その日は、必ず来る。
必ず……。
……………………。
「どしたの? さっきから黙っちゃって」
運転中のサキ姉に声をかけられて私は顔を上げた。
「……ちょっと、昔のこと思い出してた」
答えると、サキ姉はフフッと笑ってポニーテールを揺らした。
「そっか。この送り迎えも今日で最後だもんね」
窓の外を枯れた街路樹が流れていく。中学の三年間は、小学校の六年間よりもずっと短く感じられた。きっと今日の卒業式を終えれば、時間はさらに加速するのだろう。
「七海と一緒に登下校して、もう四年かぁ。なんか、あっという間だったね」
サキ姉も同じことを考えていた。けれど時間が加速を続けるのであれば、サキ姉にとっての四年間は私のそれと比べてもっと短いはずだ。同じ時間を過ごしているのに、サキ姉の中にいる私と、私の中にいるサキ姉は、人生に占める割合が違うのだ。そのことが、どうしようもなくもどかしかった。
「今だから言うんだけどさ……」
そう前置きしてサキ姉が話し始めた。バックミラー越しの表情は、少しはにかんで見えた。
「私が教師になったの、七海のおかげなんだよね」
「…………」
「私たちの家、校区の端っこで他に誰も住んでないし、学校からも遠いじゃない? 放課後に友達と遊んだり勉強したり、なかなかできなくってね。だから、七海が引っ越してきてくれた時、本当に嬉しかったんだよ」
「……そうなんだ」
私はまたうつむいた。つい浮かんでしまった笑みを見られるのが恥ずかしかったから。
サキ姉の中にも、ちゃんと私がいたんだ。
「ちっちゃい頃の七海、いつも私の後をついてきて可愛かったんだよ。……あっ、今でも可愛いよ」
「なにそのフォロー」
「私、同じ年頃の友達とあんまり遊べなかったから、七海に私のやりたいこと色々付き合わせて、結構背伸びたさせちゃったと思うんだよね。……嫌じゃなかった?」
サキ姉と遊んだ思い出の場所。
裏山のてっぺんから見える鮮やかな夜景。古い洋楽のかかる静かな喫茶店。ふと立ち止まって聴いた駅前の路上ライブ。ふたりで隣り合って観たちょっと大人の恋愛映画。サキ姉はいつも私を未知の世界へと連れて行ってくれた。小さな私ひとりでは辿り着けなかった、新しくて眩しい世界。嫌なはずなんてなかった。
「ううん、楽しかったよ。特別な場所だけじゃない。昨日の帰りに寄った、なんでもないハンバーガーショップだって楽しかった」
……サキ姉と一緒だったから。言葉の続きは飲み込んだ。
「なら、よかった。七海って、なんでもすぐに吸収してくれるから私も楽しかったんだ。成長するのを見るのが嬉しいっていうかさ。で、それをきっかけに子供が好きになって、みんないい子に育ててあげたいなって、教師を目指したんだ」
サキ姉の言葉はまっすぐで純粋だった。
「……実はさ、サキ姉」
私が続けた言葉は不純だった。
「私も……先生になりたいと思って」
サキ姉の驚く顔がバックミラーに映った。その表情が笑顔に変わったのを見て、私は胸を痛めた。
窓の外に中学校が見えた。
別に子供が好きなわけじゃない。私はただ、この時間を終わらせたくなかっただけなんだ。サキ姉と過ごせる、同じ時間を。
その気持ちだけは純粋だって、信じてほしいよ。
-おしまい-
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