五日目
工房の前を横切る坂道を下りきってそのまま住宅の間を進んでいくと、小さな商店街がある。シャッターが下りている店もあるが、精肉店や八百屋、薬局など、さもそこにあるのが当たり前だと言いたげな
「いらっしゃい、水瀬さん」
店長はちょうど在庫を数えているのか、タブレットを持ちながら脚立に乗っているところだった。狭い店内は、人がふたりすれ違えるくらいの通路幅しかない。通路の左右の壁を覆う棚の中には、店長自らが買い付けた紅茶の茶葉はもちろん、ブレンドティーやフルーツティー、ハーブティー、日本茶から中国茶まで、数え切れないほどの茶葉が並べられている。棚の片隅には、各国の茶器まで並べられている有様で、こんな商店街の一角で商売としてやっていけるのだろうか? とおせっかいだとは思いつつも心配になる。店長曰く、「このあたりは富裕層が多いから、暇を持て余したマダムたちがここの茶葉を買って日々ティーパーティーを開いてるんですよ」とのことだが、冗談なのか本気なのかよくわからない。店長は腰ほどまである長い髪を束ねて、慎ましやかな微笑みをたずさえている。まるで道端に咲く野花のような静かさが、店長にはある。
「今日は、ハーブティーをもらえますか? 咳に効くの、ありましたよね」
「ああ、ハーブティーの棚の上から二段目にある茶葉ですね。ちょっとお待ちいただけます?」
店長はタブレットへの入力を終えてから、脚立を慎重に下り、言っていたとおり「ハーブティー」と書かれた棚の二段目を左から順に指を差しながら目で追っていく。キャニスターに詰められたハーブティーの中から、とある
「これこれ。エルダーフラワーとカモミールと、タイムとリコリスがブレンドされているものですね」
いつもは単体の茶葉を選ぶことが多いので、たまにブレンドティーを購入すると店長の知識量に驚かされる。まさか、ここにあるすべてのブレンドティーに入っている茶葉の種類を覚えているのだろうか。好きと一言で言ってしまえばそれまでだけれど、あまりの熱心さに私は感心しきりになってしまう。
勧められたブレンドティーを三〇グラム、量り売りしてもらう。塗料が剥げて使い込まれている様子の
「今日は珍しい時間ですね」
「夕方、早めに仕事を切り上げてアレを見ようかと」
棚の横にひっそりと貼られた花火大会のポスターを指差した。日付は今日になっている。店長はなるほど、という顔をして、計量したハーブティーを銀色のパックに詰めていく。
店長は「風邪ですか?」と私に問いながらレジを打った。私はなんと答えればいいのかわからず、「まあ、そんなものです」とだけ答えた。
「ご自愛くださいね」
店長は心配そうな眼差しで、紙袋を手渡してくれた。私は軽くお辞儀をして、急ぎ工房への帰路についた。
先生は何も言わないけれど、今朝から少し咳が出ているようだ。咳をしながら作業すると手元がぶれるからか、作業を止めては咳をして、また手を動かし、という動作を繰り返している。苦しそうに息が吐き出される様を横目で見守りつつ、フリーマーケットで使った什器などを倉庫にしまう。追って、別のアクセサリー製作に私はとりかかり始めた。作業机の上を整理整頓して、気持ちを切り替えた。
昨日のフリーマーケットは盛況に終わり、今日から先生は取引先の雑貨屋に納める
実際の蝉の翅脈は、人間の指紋のように個体によって模様が異なっている。先生が作り出す翅脈のピアスもスリムなもの、網目が細かいものなど、どれ一つとて同じものはない。しかしよく見ると、そのどれもが絶妙なバランスを保ちながらトレイの上に並んでいる。私は先生の技を盗もうと、隙あらば先生の作業机の上に置かれたトレイの中を穴が開くほど見つめてしまう。先生は気づいているのかもしれないが、何も言わない。そこで学んだことを、自分のアクセサリー作りのときに取り入れて試すようにしている。先生のように、繊細に、丁寧に。合言葉のように心の中でそう唱えながら、日々アクセサリーを削り、塗り、磨き、組み立てている。
「休憩しよう」
先生の言葉が突然耳に飛び込んできて、私は深く潜っていた集中の海から引き戻された。作業机にある木製の置時計の針は、いつもの休憩時間を大幅に過ぎていた。私は「すみません」と断ってから、あわてて給湯室に向かう。後ろから、「あわてなくていいから」と言葉が私の背中に向かって投げられる。その声に驚いて、思わず机の脚にひっかかりそうになった。
いつもの紅茶と違い、今日買ってきたハーブティーはよく乾燥した牧草のような色をしている。ガラスのティーカップのふちは湯気でくもり、その蒸気にのって、すうっとした若い香りが鼻まで届いてきた。
「ハーブティーか。珍しいな」
先生は熱いハーブティーをティースプーンでかき混ぜて冷ましながら、ゆっくりと口に含んでいる。私は「お口に合えば良いんですけど」とだけ言って、そのままハーブティーを飲み進めた。
いつもだったらそれとなく仕事の話題が出てくるものなのに、今日はふたりともなかなか口を開かなかった。ふうふう、と息を吹きかけてハーブティーを冷ます音、外の蝉の鳴き声、風の音、子どもたちが坂を駆け下りていく声。それらすべてが、夏の午後という音楽を奏でている。太陽に熱された空気は、ティーカップから漂う緑色の香りを私の元まで運んできた。
この時間が、いつまでも続いたら。私はそんなことを考えて、庭に咲く花々を見つめていた。
「今日は花火大会らしいな。配達の人が言ってたよ」
先に口を開いたのは先生だった。
「そうなんですよ。私も見に行こうかなと思って。先生も一緒にいかがですか?」
「花火、か。いつもは見られないからいいかもな。ただ、人混みは疲れる」
先生はどこに行っても注目の的なので、なるべく人混みには行かないようにしているようだ。それを知っているので、私はひとつ先生に提案する。
「だったら、坂の上の神社に行きませんか? 私も屋台には興味ないですし。ただ、花火が見たいだけなので」
経済成長の時代、山を切り拓いて開発されたこの住宅街にはいくつもの坂が張り巡らされている。この工房もそんな坂の途中に位置しているが、まだ山の全容から言えば中腹で、もっと標高が高いところにまで住宅が所狭しと並んでいるのだ。どの建物も古くからあり、どこか懐かしさも感じる景色が続いていて、私は気に入っている。
工房の前の坂を一〇分ほど上ると、小さな神社がある。石段と鳥居と小さな祠だけの神社で、神主さんがいる気配はない。
「あそこならちょうどいいな。近くに住んでいる人は大抵自分の家から見るだろうし、会場からはちょっと距離があるから、わざわざ神社まで来ないだろうし」
先生は大きく咳払いをしてから、カップに残ったハーブティーを飲み干す。私は先生のカップにポットからハーブティーのおかわりを注いだ。「悪い」とかすれた声で言って、先生はひとくち飲んでから深呼吸していた。
「じゃあ、一緒に見に行きましょう」
先生は声を出さずにうなずいた。
太陽が傾き始めた頃、仕事を早めに切り上げた私は給湯室に立っていた。ハーブティーをもう一度濃いめに淹れ、ポットではなく氷とともにステンレスボトルに詰める。これで氷が溶ける頃にはちょうど飲みやすい濃さになっているはずだ。倉庫にあったレジャーシートを引っぱり出し、先生と一緒に工房を出る。先生はエプロンを外しただけの作業着の恰好だった。
「少し日が短くなったかな」
「確かに、そうかもしれませんね」
夕陽を背に感じながら、先生と坂を上っていく。暑さは昼間とそれほど変わりないが、最近着々と夕陽が沈む時間が早くなっていた。以前は仕事を終えたときでもまだ陽が出ていたのに、今は夕方と夜が空を分け合っている。先生と私の影が、アスファルトに細く、長く映し出されている。
予想通り、鎮守の森の中にひっそりと佇んでいる神社には誰もいなかった。狛犬の片方は耳が欠けているものの、お互いを見つめ合いながら小さな祠を守っている。神様に「今日は敷地をお借りします」と一言ことわってから、石段にレジャーシートを広げて特等席をおさえた。先生と私は鞄を挟んで並んで石段に腰掛けた。夜の
「もうすぐですかね」
腕時計の針が六時半を指した、そのときだった。
ドンッ、と大太鼓のような音が打ち鳴った。音の波で肌が震えた直後、笛の音のような高い音が夜空に鳴り響く。
もう一度太鼓が打たれたかと思うと、大輪の花が夜空に咲いた。煙とともに白や黄の光が四方八方に広がり、ぱらぱらぱらと乾いた音をたてて川面に落ちていく。「わあ」という声が自然とこぼれた。
先生と会話を交わさぬまま、夜空にひとつ、またひとつと花が咲いていく。私は花火に夢中になっているフリをして、白く照らされた先生の顔を見る。先生の瞳は次々とそれらの花を映しては暗くなってを繰り返していく。見つめているのが先生にバレないように、また花火に視線を戻した。花火が打ち上がる音を聞きながら、私は工房で働き始めた夏のことを思い出していた。
先生の工房に採用されることが決まり、緊張しながら工房の門を叩いたあの夏の日。返事はするものの先生の姿が見えず庭まで入り込んだら、大きなヒマワリに水をやっている先生がいた。私がどうすればいいのかと庭先で固まっていると、「水道の蛇口、止めてもらえる?」と話しかけられたことを覚えている。細かな水しぶきに光が当たって煌めくその風景が、まるで額縁に切り取られたかのように私の記憶の中で大切に飾られている。
あの日から始まった先生との日々は、私にとって貴重な時間だった。アクセサリー職人として早く認めてもらおうと必死だった毎日。入りすぎた肩の力を抜くために、休憩を設けてお茶を入れるひとときを提案してくれた先生。忙しい時間を割きながら、私の
ステンレスボトルの中の氷がハーブティーに溶けていくにつれ、今まで先生と過ごした夏の場面がいくつも浮かび上がってくる。
ああ、私は、先生のことを……。
「どうした?」
先生はうつむく私を気遣ってくれたのか、デニムのポケットからハンカチーフを取り出して差し出してくれた。二日目に怪我をして汚してしまったハンカチーフの代わりに、私から贈ったハンカチーフだ。深い青に黄色と白の細かなドットが入っていて、まるで花火がはじける夜空のようだと思った。ハンカチーフの柄がどんどんにじんでいく。やっとそのとき、私は自分が涙を流していることに気づいた。
私は両手の拳を膝の上で握りしめて、覚悟を決めて尋ねた。
「先生、今回は、今年は一緒にいてくれますよね?」
心音がどんどん大きくなり、吐息が震える。こぼれ落ちる涙を止めることができないまま、先生の答えを待つ。花火がひとつ開き、柳のようにしだれては川面に光を落とすのが見えた。光を照り返した川面は、まるで私の心臓のように絶えずゆらめいていた。先生は大きく息を吐き、一度足下に視線を落とした。大きな花火の音が聞こえなくなる。先生は、私の方をまっすぐに見つめた。彼はいつだって、大事な話をするときは私の目を見てくれるのだった。
「いや、いつものように、明後日にはもうここにはいない」
花火が夜空にはじけては消えていく。先生の顔が、白、赤、黄色と次々に色を変えていく。私は先生を見つめたまま動けなかった。
「だって僕は蝉なんだから」
いつのまにか透き通るような虫の鳴き声が辺りに響いていた。夏はもう終わりかけているのだと、乾いた空気が私に告げていた。
先生とともに過ごした七日間が花火のように消え去ってしまうことを、私は痛いほど知っていた。
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