六日目

 「俺は明日、ここを出る。だから工房を任せたぞ」


 最初の先生にそう言われたのは、工房に入ってまだ四日目、先生と初めて電話で話してから六日目のことだった。今から四年前の、例年よりも涼しい夏、瑞々しい葉がこすれあう音とせみの声が鼓膜を震わす午後だった。私は思わず、右手からロンググラスを落としそうになり、慌てて両手で掴んだ。


「ま、任せるって、どういうことですか?」

「そのままの意味さ。工房の道具や材料は好きに使っていい」


 開いた口がふさがらない私を無表情で見つめながら、先生は動じる様子もなくただアイスコーヒーを飲み続けていた。コーヒーはブラックしか飲まない、という先生に合わせ、私もその日はブラックを飲んでいた。ロンググラスのふちにあわせてまるく波打つアイスコーヒーに、自分の不安そうな顔が映り込んでいる。


 確かに今現在受けている仕事は、あと先生の仕上げだけで終わるため、私は納品に行くだけでよかった。材料の仕入先や納品先のリストも整理されて本棚に収まっている。私が作っている木製の天道虫てんとうむしのブローチは、先生が描いた図絵と設計図に沿ってなんとか彫り進めることができる。まだ途中だが、ひととおり先生に教えてもらったので、時間はかかれど完成させることができるだろう。


「む、無理です。私まだここに来て四日目ですよ」


 私は自分に言い聞かせるように、先生に見せつけるようにかぶりを振った。この工房を、一人で切り盛りしていく自信がまったくなかったのだ。教えてもらったアクセサリーの種類も少ないし、何より先生が生み出す繊細な線や質感を再現できる力がない。それに、まだまだ先生に教えてもらいたいことは山のようにある。


「大丈夫だろう。もう材料の場所もわかるし、手配の仕方も教えたし。来年の夏まで、自分の腕を磨いておくといい」


 「ごちそうさま」と、先生は空になったグラスをテーブルに置く。まだ知り合って間もないが、先生が冗談ではなく真面目に言っているのだということが声色でわかった。先生が大きく咳払いをすると、庭の木に止まっていた小鳥が、ピ、と鳴いて飛び立っていった。先生はその日、ずっと咳が止まらなかったようだった。


「来年の夏まで、って……。来年の夏には戻ってくるんですか?」

「ああ。俺かはわからないけど、戻ってくるよ。必ず」


 先生の言葉に違和感があったけれど、聞きたいことが多すぎて頭の整理が追いつかなかった。不安やら心配やら疑問やらが入り交じった頭の中のスープから、私はかろうじてひとつの問いをすくいとる。


「そもそも『ここを出る』って……先生はどこに行くんですか?」


 先生は胸の前で腕を組み、椅子の背もたれに体を預け、空を仰ぎ見た。その様子を見て、私もつられて同じ方向を見上げる。そこにはちょうど、飛行機が一筋の雲を引き連れて空を横切っていた。


「さあな。でも俺は七日間で、ここからいなくなる。あの飛行機雲みたいに、何もなかったように消えるんだ」


 先生は表情を変えず、飛行機雲を見つめたままだった。飛行機はそのまま、入道雲の影に隠れて見えなくなった。突然、強い風が吹き立つ。まるで先生の声をかき消そうとするかのようだった。しかし、静かな先生の言葉は、私の耳にしっかりと焼き付いた。


「だって俺は、蝉だから」


 私はこのときの先生の表情を、一生忘れないだろう。



 四年前のことを思い出しながら、私は作業机に並ぶ虫たちの背中を見据えていた。


 六日目の今日、朝からいつもと変わらずお互い背を向け合いながら作業していた。先生が、スッ、スッと、小気味よく刷毛はけで塗料を塗る音が部屋に響く。その音が聞こえなくなったと思ったら、かすれた咳払いが追って聞こえた。


「大丈夫ですか? 先生」

「ああ……」


 かすれた返事をしたあと、先生はハーブティーを口にした。昨日よりも咳き込むことが多くなったようだ。先生の作業机の横にハーブティーをたっぷり淹れたポットを置いているが、喉が渇くのか、減りは早かった。私は次のハーブティーを淹れようと、こっそり給湯室へと足を運んだ。


 昨夜、あれから最後の花火が打ち上がり終わるまで、先生と一言も言葉を交わすことはなかった。空がいつもの暗さと静けさを取り戻したところで、先生が「帰ろう」とおもむろに立ち上がり、工房への帰路についた。私は自分の鞄を持ってきていたから、途中で先生と別れて家路につくことにした。角を曲がる手前で振り返ると、先生は大きな背中を少し丸めて歩いているように見えた。なんと言葉をかければよいのかわからず、私はそのまま角を曲がるしかなかった。


 今朝出勤すると、そこにはいつもの先生がいた。しかし私は、やはり先生にかける言葉が見つからないままだった。ポットの中で、ブレンドされた数種類のハーブからお湯に枯草色かれくさいろが伝わっていくのを、私はただ眺めることしかできなかった。


 清々しい香りがくゆる淹れたてのハーブティーと空のポットと交換しようとすると、先生と目が合った。昨夜とはまったく違う、少しいたずらっぽい表情が何を示しているのかわからず、私はどきりとした。


「水瀬さんもコレ、そろそろやってみようか?」

「何をですか?」

「コレ」


 先生は作りたてのせみ翅脈しみゃくのピアスを顔の横に掲げた。作業机のデスクライトの光が当たって、翅が七色に輝きながら揺れている。私は驚きを隠せず、先生から目をそらしてしまった。


「それは……先生のものじゃないですか」


 蝉の翅脈のピアスはこの工房の看板商品だ。これまで先生に教えてもらったアクセサリーはいくつもあるが、このピアスだけは先生が手がけていた。それだけこの工房にとって大切な蝉の翅脈のピアスの作り方を、先生が教えてくれる。アクセサリー職人としての技量が認められた嬉しさがこみ上げてくるが、その気持ちに無理矢理蓋をされるように胸の奥がきゅっと締めつけられた。悪い想像が、頭の中をよぎった。


 今まで先生しか作れなかった蝉の翅脈のピアスを私が作れるようになったら、先生は来年の夏も工房に戻ってきてくれるのだろうか?


「大丈夫さ、水瀬さんなら」


 先生は穏やかにそう言った。私が懸念していることを悟ったからなのかはわからない。でも先生は、いつでも私の気持ちに寄り添って応えてくれるのだ。私も、先生の想いに応えたい。


 私は決心して、先生に頭を下げた。午後から早速、蝉の翅脈のピアスの作り方を教えてもらうことになった。


 蝉の翅脈のピアスは、銅製のワイヤーを編んで、全体を形作るところから始まる。ロールから引き出した一本のワイヤーを編み、一枚の翅を作っていくのだ。幅一センチ、長さ四センチという小さな範囲の中で、ワイヤーをねじっては広げ、別のワイヤーと編み込み、という地道な作業を何度も繰り返していく。この編んでいく構造は先生が考案したものだそうで、今日初めてそのデザイン図を見せてもらった。黄ばんだ画用紙に引かれたインクはところどころ滲んでおり、編みが交差する場所には編み目を示す数字が書きこまれている。画用紙の右隅にサインらしきものも綴られていたが、なんと書かれているか判別できなかった。


 先生は私の作業机まで丸椅子を持ってきて、隣でワイヤーを編んで見せてくれた。私も見よう見まねでワイヤーを指に掛けながら、先生の編み方を目に焼き付けようとする。先生が編み進めては、私が拙い手つきで真似をする。先生は私が同じ所まで編んだのを確認してから再び手を動かし、私に語りかけるようにゆっくりと編んでいく。私は先生の二倍以上の時間をかけながら編む。そんな無言のやりとりを繰り返して、蝉の翅は少しずつ形を為していく。その様子は、さなぎの背がひらき、折りたたまれた翅が伸びていく蝉の羽化うかを思わせた。


 やっとの思いで、一枚の翅ができあがった。先生のものと比べると、私のものはワイヤーにうねりが出てしまっているし、扇風機の羽根のようにカーブを描いて反ってしまっている。先生の手のひらにある翅は、本物の蝉の翅かと思うほど、薄く平らで、編みが感じられないほどに隙間が引き締まっていた。だからか、先生が作った翅は私が作ったものよりもひとまわり小さい。「最初はそんなもんさ」と、先生は私に作った翅を渡して、すぐさま丸椅子を持って自分の作業机に戻ってしまった。あとは自分で作りながら覚えろ、ということなのだろう。私は似ても似つかない二枚の翅を、手のひらの上で見比べていた。どうすれば、先生が作る翅に近づけるだろうか。そう考えながら、もう一度ロールからワイヤーを引き出して編み始めた。


 どれくらいそうしていたのだろうか。ふと気づけば、窓の外に暗いカーテンがひかれていた。自分の手を見ると、ワイヤーを引っ張り続けた指の腹が赤く腫れ上がっており、じんじんとした痺れが熱として伝わってくる。作業台の端に目をやると、不格好な翅たちが長い列を為していた。


 編み目の作り方は指が覚えたが、隙間なく編もうとすると無駄な力が加わり、どうしてもバランスが悪くなってしまう。気をつけようと思うと今後は編み目が広がり、不格好になる。それの繰り返しだった。


「ロールごと使い切る気か?」


 先生はいつの間にか私の背後に立っていた。先生の言うとおり、銅製のワイヤーが巻かれていたロールはずいぶんと細くなっていた。


「材料は好きに使っていい、と言われたので」

「僕、そんなこと言ったっけ?」

「ええ」


 私は「四年前、一人目の先生に」とは言わなかった。


「ほら」


 先生は私の作業机に、商店街にあるパン屋の名前が印刷されたビニール袋を置いた。中には白い紙に包まれたカレーパンが入っていた。包み紙に油が染みてしまっているが、スパイシーで美味しそうな香りに刺激され、思わず唾液が溢れてくる。


「買ってきてくださったんですか?」

「閉店間際だったから、それしかなかったんだけどね。集中してたから、声をかけるのも何だなと思って、急いで買ってきた」


 いつもは夕方に仕事を切り上げるか、夜遅くなる場合は私が買い出しに出かけるのがつねだったのだが、今日は先生が工房から出て行ったことも気づかなかった。人混みが得意でない先生がわざわざ商店街まで買い出しに行ってくれたのか。集中して強ばっていた体から力が抜けた気がした。


 先生に御礼を言ってから、がぶり、とカレーパンを大きな口でほおばる。中のルーは冷たく、ねっとりと舌に絡みつく。旨味と香辛料の辛みが口いっぱいに広がるが、ふわふわのパンがそれを包み込んでくれる。


「相変わらず、あのお店のパンは美味しいですね」

「な」


 先生も袋からカレーパンを取り出したと思ったら、ばく、ばく、ばく、と瞬く間に食べてしまった。急ぐ必要はないのに、私も慌てて二口目をかじる。


 二人で中央の作業机を囲みながら、先生はハーブティーを飲み、私はカレーパンを食べている。いつもなら、次につくるアクセサリーの話や商店街に新しいお店ができた話など、話したいことはたくさんあるのに。私は話題を探し出せずに、いつもは全く気にしない時計の音に耳を傾けていた。


「どう?」


 先生のその問いが、蝉の翅脈のピアスの進み具合を聞いていることはわかった。口の端についたカレールーを指で拭いながら、何をどう言葉にしようか迷う。


「難しいです。先生のように隙間をなくそうとすると、どんどん全体が歪んでいってしまって。うまく言えないんですけど」


 両手の人差し指と親指を交差させて、隙間をワイヤーの編み目に見立てて説明する。ネイルも塗っていない傷だらけの指先に、先生が注目している。


「ああ、編むときに力をかけすぎてるんだろうな。力をかけて編み目をキツくするところと少し緩めるところ、それを見極めないといけない」


 先生は私の手首を掴んで、私の両手を近づけたり、遠ざけたりした。近づけるときはきつく、遠ざけるときは緩く、指の間の隙間の大きさが変化する。先生の手のひらは私の肌を焦がすように熱く乾燥している。私は、今まで会った四人の先生のことを思い出していた。


 先生は毎年、ふらりと工房に訪れては、きっかり七日目に、工房を去っていく。しかし、一人として同じ先生はいなかった。背格好や着慣れたエプロンをつけている姿は一緒なのに、それまで私とともに過ごした時間の記憶はない。一人称も私を諭す口調も、好きな飲み物の嗜好も、手のひらの温度も違う。現に一人目の先生はコーヒーを飲むならブラックと決まっていたし、三人目の先生は煙草を吸う人だった。そんな先生たちにも、共通点が多くある。アクセサリーをつくる繊細な手つきや、花やお茶の時間を愛していること。そして、私の名前は必ず覚えてくれていること。


 私が尊敬する先生は、私が愛する先生は、一体どの先生なのだろう。


「まだやる?」


 私の手首はいつの間にか先生の手から解放されていた。けれど、熱はまだ帯びたままだ。まだ作業を続けるのか、ということらしい。私は家に帰りたくなかった。もう少し作業を続けて、感覚を掴んでおきたかった。


「はい。先生はもうあがってくださって結構です。静かに作業するので、先生はお休みになってください」


 先生はポットに入っていたハーブティーをすべて飲みきっていた。ほどほどにな、と一言残し、ポットとカップを給湯室に片付けてから壁にエプロンをかける。自室に続く階段を上っていく途中でこちらを振り返った。


「じゃあ、おやすみ。無理はしないように」

「おやすみなさい、先生。お夜食、ありがとうございました」


 先生の姿が階段の奥に消え、ドアの締まる音が聞こえるまで、私は立ったまま見送った。


 それからも、私は夜更けまで蝉の翅脈のピアスを作り続けた。先生から教えてもらったコツを頭の中で反芻はんすうしながら、試行錯誤していく。ワイヤーをきつく編むところは、緩めるところはどこなのか。一目ずつ、確かめるように編み進めていく。最初は翅が大きく曲がってしまうことが多かったが、徐々に歪みが少なくなってきた。幼虫の背中が割れ、そこから出てきた蝉の成虫の翅のしわがどんどん伸びていくようだ。


「先生のように、繊細に、丁寧に。先生のように、繊細に、丁寧に……」


 窓から吹きこんでくる風が、湿気ではなく晩夏の香りをはらんでいることに、私は気づかなかった。虫の声を聞きながら、私は手を休めることなく蝉の翅脈を編み続けた。


 先生とともに過ごす六日目を、私はまだ終わらせることができなかった。

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