三日目

 先生が工房に姿を見せてから三日目、庭に水をまいたおかげでほんの少しだけ爽やかな風が窓から吹きこむ昼下がりのことだった。明日にさしせまったフリーマーケットで売り出す商品の仕上げに追われている中、突然、工房の門扉につけられた呼び鈴の乾いた音が鳴り響いた。先生に心当たりがあるか表情で尋ねたが、先生は首を左右に振る。資材などの配達を頼んでいた訳でもなかったので、不思議に思って急いで門扉まで走った。


 門扉の外には、肌がよく日に焼けた小学生が立っていた。顔は真っ赤で、短く切りそろえた前髪は汗でおでこに貼りついている。友だちの家とでも間違ったのだろうかと戸惑っている私に向かってその子は切り出した。


「あの、カブトムシのぬいぐるみ、ありますか?」


 Tシャツとショートパンツという風貌だったので男の子かと思っていたたが、声色が女の子のものだった。私は少しかがみ、女の子と視線を合わせて応じる。


「ごめんね、ぬいぐるみは作っていなくて……」

「カブトムシのやつが、いろいろあるって聞いたんですけど」

蝶々ちょうちょうとか、天道虫てんとうむしのネックレスとかはあるんだけど、甲虫かぶとむしは今は無くて……」


 小学校の中学年くらいだろうか? 普段この年代の子どもと喋らないので、受け答えがしどろもどろになってしまう。女の子の緊張した面持ちがどんどん悲しげな表情に変わってしまったので、あわてて今販売できそうなものを挙げてみた。蝶々や天道虫、蜜蜂みつばちでも彼女の顔は晴れず、「カブトムシがいい」と小さな声でぽつりと呟いた。両眼からは、泉のように涙がどんどんあふれ出している。急いでハンカチーフを差し出したが、女の子は頑なに動かない。


「どうした?」


 私が戻らないからか、背後にはいつの間にか先生が立っていた。女の子は何も言わず、自分の爪先を睨みつけながら、はらはらと涙をこぼすばかりだ。燃えるように熱くなったアスファルトにいくつもの小さなシミができていく中、先生に手短に経緯を伝える。


「とにかく外は暑いから、中に入りなさい。涼しくはないけど、外にいるよりはマシだよ」


 先生は工房の中を手で指し示した。私に冷たい飲み物を用意するように伝えてから、先生はしゃがんで女の子に目線をあわせた。女の子はその気配に気づいたのか、やおら顔を上げた。先生を見た途端、潤む目はみるみるうちにまるくなった。


せみの人、初めて見た」


 初めて見る蝉頭せみあたまの先生に興味津々なのか、女の子はついさっきまで泣いていたことも忘れたように、瞬きもせず見つめている。確かに、このあたりで頭が蝉なのは先生くらいだ。彼女の驚きように、先生は「そうだろうね」と笑う。それにつられて、女の子も口角を上げた。ほっとした私は急いで給湯室に向かった。


 今日はちょうどフルーツティーにしようと、近所のフルーツ屋さんでいくつか果物を仕入れてきたところだった。フルーツティーなら小学生の女の子でも飲みやすいだろう。冷蔵庫から果物をいくつか取り出し、ナイフで切り分けていく。輪切りにした夏みかんや苺、桃やブルーベリーを紅茶に入れてしばらく置くと、紅茶の爽やかさと果物の甘酸っぱさが良いハーモニーを奏でるのだ。


 工房の中央に据えてある作業台を囲んで、私と先生、そして女の子が椅子に腰掛けた。女の子のフルーツティーにはストローを添えた。小さな声で「ありがとう」と言ってくれたので、「どういたしまして。どうぞ飲んで」と微笑み返すと、照れたようにうつむいてしまった。小学生の頃って、知らない大人に対応されると自分まで大人になった気分で誇らしかった反面、異様に恥ずかしかったな、と思う。


 紅茶を飲んでいると、女の子の火照った頬の赤みが少し収まってきた。彼女にいろいろ尋ねると、少しずつ自分のことを話してくれた。名前はミサキちゃん、というらしい。近所の小学校に通う子で、お友達から私たちがアクセサリーを作っていると聞いたようだ。今春にもフリーマーケットに出店してアクセサリーを販売していたので、おそらくそのときにお友達は知ったのだろう。場所がわからなかったので、夏休みに入った直後からこのあたりを探していると、庭先に甲虫の置物があるのを見たのだという。そして今日、勇気を出して尋ねてきてくれた、ということらしい。そういえば一週間ほど前に習作として三つほど木彫りの甲虫をこしらえて、黒いニスで塗装して庭先に出して干していたことを思い出した。


「甲虫、好きなんだ?」


 私の質問に、ストローをくわえたままミサキちゃんはうなずいた。時折、悪いことをしているのを隠しているように先生のほうを盗み見ている。口吻こうふんから紅茶を飲む先生の姿に興味があるのだろう、先生もそれをわかっていて、あえて何も言わず紅茶に舌鼓を打っているようだった。


「なんで甲虫好きなの? 女の子で、珍しいね」


 私が甲虫を好きな理由を聞くと、一転、少し彼女の表情が曇った。また私は失敗してしまったのだろうかと思い、次の言葉に悩んでいると、彼女はストローから口を離して独りごちた。


「そんなにカブトムシ好きなの、ヘンなのかな? ともだちもみんな、『ヘンなの』って言うから……」


 ミサキちゃんはストローで紅茶の中の桃の果肉を潰しながら、独り言のようにこぼした。私が慌てて否定しようとすると、先生が右手で私を制した。先生も私も、ミサキちゃんの小さな声に耳を傾けた。


「女の子がカブトムシ好きなんてヘンだよって、みんなが言うの。チョウチョのほうがカワイイから、そっちのほうにしなさい、って、お母さんも言う。私は、カブトムシが好きなのに……」


 落ち込む彼女の丸まった背中を見て、私は自分の幼い頃を思い出した。なぜか青系や緑系の色が元々好きだった私は、赤やピンクのランドセルが嫌で、親に泣いて訴えたことがあった。「みんな赤だよ」「赤が『フツウ』なんだよ」と散々諭されたが、納得しないまま赤いランドセルを背負わされて学校に行ったことを覚えている。同じ学年の男子が背負う、黒や濃紺のランドセルが羨ましくて仕方がなかった。家で翌日の学校の準備をするたびに、赤いランドセルが目に入るのが嫌だった。痛いほど気持ちがわかるのに、目の前のミサキちゃんにかける言葉が見つからない。「変じゃないよ」とか、軽い反射的な励ましの言葉しか思い浮かばなかった。


「好きなものは、無理矢理変える必要はないよ」


 そう彼女に声をかけたのは先生だった。低い穏やかな声に、ミサキちゃんは顔を上げて先生を見る。子どもに話しかけるようにではなく、対等な立場として一人の人間に説くような言い方だった。ミサキちゃんは口をぎゅっとつぐみつつも、先生の言葉に耳を傾ける。


「と、いうか、好きなものは変えられないんだ。だって、好きだから。好きであることに理由はいらないけれど、好きなところはたくさんある。それでいいんだ。そこに男だとか女だとか、若いとかお年寄りとか、人だとか蝉だとか、まったく関係ないよ」

「……そうなの?」


 今まで先生と目を合わせていなかったミサキちゃんが、先生の顔を不思議そうに見あげている。


「うん。そうだ、ちょっと待ってて」


 先生は自分の作業台から、スケッチブックと鉛筆を持ってきた。深緑の布が貼られた表紙のスケッチブックは、先生が新しい商品のデザインラフを描きためているものだ。新しいページを開いたところで、先生はミサキちゃんに向き直る。


「さて。ミサキちゃんは、どんな甲虫が好き?」


 ミサキちゃんはもじもじと体を揺らして答えたが、私も先生も聞き取れなかった。「もう一回」と先生が促すと、先ほどよりも少し大きな声で、


「サタンオオカブト……」


と呟いた。


「サタンオオカブト! 渋いね。角がかっこいいよ、アイツは」


 先生がすぐさまリアクションすると、ミサキちゃんの目に光が宿った。先生が知っていることに驚いたのか、鼻の穴がぴくっと動いたように見えた。


「そう。こう、ぐわーんとなってるのがかっこいい」


 ミサキちゃんは両腕を角に見立てて、先生に向かって勢いよく突き出す。彼女なりの『ぐわーんとした角』の表現が可愛らしい。先生は彼女の話にうんうんとうなずく。


「普通の甲虫は角が三本なのに、サタンオオカブトは二本なんだよな。まるっこいし、上の角に毛が生えてて面白い」


 先生はミサキちゃんと受け答えしながら、おもむろに紙の上に鉛筆を走らせはじめた。何も見ていないのに、淀みなく伸び伸びとした線が重ねられていく。あっという間に紙の上の線は輪郭を持ち、光と影が与えられ、細部が追加されていった。


 私は壁にすえつけられた本棚から、確認用の昆虫図鑑を取り出した。昆虫の体構造を確認するために、私が工房に置いたものだ。甲虫のページから、サタンオオカブトを探す。ページの右隅に、小さな写真が載っていた。光沢のないはねをもち、上下に立派な二本の角をこちらに向けている写真だった。上の角の内側には細かな茶色の毛がびっしりと生えている。先生が描こうとしているものと、同じ格好をしていた。先生がこんなページの片隅に載っている昆虫の姿を覚えていて、しかも空で絵を描けることに、驚きを隠せなかった。


 いつの間にか、ミサキちゃんは鼻息を荒くして甲虫の話に夢中になっていた。眉をハの字にしていた先ほどまでの表情とは打って変わって、頬が紅潮している。サタンオオカブトだけではなく、私の知らない甲虫の生態の話から、外国にしかいない他の甲虫の話までしている。先生はミサキちゃんの途切れない話の合間を縫って「へえ」とか、「そうだよな」とか相づちを打つ。たまには鉛筆の手を止めて、ミサキちゃんと同じように先生は興奮した声で甲虫の良さを力説していた。いつもは静かな先生が目を輝かせている。そこまで甲虫に詳しくない私は話に入れなかったけれど、二人がまるで旧友のように笑い合っている光景を、すぐそばの特等席で見守っていた。


「はい、サタンオオカブト描けたよ」


 先生はスケッチブックから紙を丁寧に破りとって、ミサキちゃんに手渡した。満面の笑みで彼女は紙を受け取り、鉛色のサタンオオカブトをじっと見つめたあと、大切に胸に抱きしめた。口から零れた「ありがとう」は、工房の中に優しく響いた。


 ミサキちゃんが玄関のアプローチの石畳を飛び跳ねるようにして工房を後にしたのは、すでに太陽が傾き始めた頃だった。昼下がりにミサキちゃんがやってきたので、三時間ほどいただろうか。スケッチブックの一ページを握りしめて何度も振り返るミサキちゃんに、先生と私は並んで手を振る。今日の昼下がり、門扉のところに立ち尽くしていた彼女とは表情が変わっていた。


「また……」


 ミサキちゃんがそう呟くと、先生はうなずいた。


「また、遊びにおいで。甲虫の話をしよう」


 ミサキちゃんの表情が一段と明るくなり、「うん」と大きく返事をした。私はその二人のやりとりを見守っていた。夏の夕暮れは早いから、もうお帰り、と先生が言うと、ミサキちゃんは坂道を一気に駆け下っていった。私と先生は彼女の背中に向かって手を振り続けた。


 彼女の姿が見えなくなったところで、先生は脱力したように大きく息を吐いた。


「おじさん、だってさ」

「ショックだったんですか?」


 工房の中に戻りながら、先生はおおげさに肩を落とす仕草をする。ミサキちゃんは

先生と会話する中で、「おじさん、絵上手いね」とはしゃいでいたのだ。私は先生の落ち込み様に思わず吹き出してしまった。先生は「笑うなよ」と言いながら、作業場の扉を開ける。ついさっきまで賑やかだった工房は、やけにがらんとして見えた。窓枠で切り取られた橙の陽光が作業机に落ちていた。


「残業決定ですね」

「ま、明日だしな。フリーマーケット」

「とりあえずお茶、淹れ直しましょうか?」

「頼む」


 先生は作業台に戻り、私は給湯室へ行ってお湯を沸かし始める。残りの作業を考えると、今日は夜遅くなるだろう。アクセサリーの仕上げはもちろん、明日の出店の準備もしなければ。やることは多くてまだまだ帰れそうにない。それでも、どこか不思議と気持ちは軽かった。シュンシュンシュンと、心なしかやかんも笑っている気がする。いつもは淹れることのない茉莉花茶まつりかちゃを棚から取り出し、ポットに茶葉を計り入れた。忙しい夜だけど、少しでもリラックスできるようにと思いながら、お湯をゆっくりと注いだ。


 先生とともに過ごす三日目は、まだまだ長くなりそうだ。

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