二日目

 早朝の蝉の爽やかな声がシャワシャワとこだまする。日中になると、茹だるような暑苦しい鳴き声に変わるが、朝は楽しげに輪唱しているかのように木々の葉を震わしている。


 絶えず窓から差し込む木漏れ日が、私の作業台に鮮やかな模様を作り出しては、また新しい模様に変化していく。作業台の天板に並べた商品一つひとつに顔を近づけ、気泡ができていないか、ムラがないかを、様々な角度から眺めて確認していく。薄黄色の透明樹脂で作ったハニカムの中に佇む蜜蜂みつばちの複眼が、ひっそりと私を見つめ返している。木漏れ日の中で商品をチェックしていると、揺れる光で目がちらついて疲れてしまうのだが、万華鏡のように表情が移り変わるこの席から離れようと思ったことは一度もなかった。


 先生はTシャツとジーンズで階段を降りてきた。アトリエの二階は居住スペースになっていて、ベッドとクローゼット、デスクに椅子、本棚と、最低限の家具が設置されている。先生は夏の間、そこで寝泊まりすることになっていた。あくびをひとつして、壁にかけてあった紺色のエプロンに手を伸ばす。


「おはよう。今日は一段と早いな」

「おはようございます。樹脂の確認を早めにしておきたくって。コーヒー、淹れますね」


 眠たそうな先生のために、作業の手を止めて給湯室に向かう。蛇口をひねった途端勢いよく流れ出した水道水は、少しぬるかった。


 樹脂の乾き具合は、思ったほど進んではなかった。通常、樹脂は気温の高さに比例して乾きも早くなる。しかし樹脂でつくったもの自体が小さいと化学反応が促進されず、硬化が遅くなってしまう傾向にある。乾燥しきった後で少し仕上げの加工を入れたいので、乾き具合を見てすぐに作業に取りかかれるよう準備しておかなければならない。フリーマーケットはあと二日後に迫っている。


 焦っては良い仕事はできない。気持ちがく自分にそう言い聞かせ、先生の分とあわせて自分の分のコーヒーも淹れることにした。キリリとした苦みで先生の目が覚めるようにと、マンデリンにする。熱いコーヒーを氷の上から注ぐと、きゅう、と鳴きながら氷が瞬く間に小さくなり、少し濃いめのアイスコーヒーができあがる。鼻孔をくすぐる芳香が、焦る私を少しだけ落ち着かせた。


 コーヒーを飲み干した私たちは、急ぎ午前中の作業にとりかかる。今日の主な作業は、鍬形虫くわがたむしのブローチの仕上げだ。杉の木のブロックから実物大の鍬形虫を大まかに彫り出してあるので、細部を削っていく。いちばん小さな彫刻刀で、あごのとげを落としてしまわないよう周囲の木を削り、頭部と胸部の境目を深く彫り込む。はねの境目にも、三角状に浅く会合線かいごうせんを入れていく。木目に時には逆らい、時にはならって彫刻刀を動かしていくと、少しずつ鍬形虫の姿があらわになっていく。


 この工房で働くようになってから、昆虫の体構造に詳しくなった。アクセサリーをかたちづくる際に役立てようと昆虫図鑑を購入し、日々勉強していたからだ。足のつきかたは? 腹の模様は? 翅のかたちは? 眼の構造は? 


 図鑑のページをめくり、一つひとつ昆虫のことを知るたびに、その美しさを改めて実感した。それぞれの生息環境や体構造が異なっているのに、どの昆虫にも無駄がない。そう在ることが当然であるかのような姿をしている。その美しさをすくいとり、木や樹脂や金属に閉じ込めようと、私はこの四年間を費やしてきた。


 私の昆虫図鑑は、蝉のページがいちばんボロボロになっている。せみの翅のピアスは、先生の最も得意とするアクセサリーであり、この工房の看板商品だ。今は先生しか作れないが、私もいつか作ることを目標にして、蝉の特徴や生態、体構造の部分を何度も何度も読み返している。


 同じページには、人間と蝉の関係についても記してあった。中国では、地中から出てきて飛び立っていく蝉を、生き返りや復活、再生の象徴と考えるのだそうだ。高い位の人が亡くなると、蝉の姿を彫った装飾品をお墓に入れて埋葬した時代もあったという。


 でも、日本では、蝉は――。


「! 痛っ……」


 あ、やってしまった。そう思った瞬間、彫刻刀が木目に沿って思わぬ方向に滑り、私の左人差し指を切り裂いた。ぷくう、と血が傷から湧きだし、みるみるうちに赤い玉が大きくなっていく。私は決して商品だけは汚すまいと、急いで席を立ち机から離れる。椅子がガタンと倒れた直後、指先は得も言われぬ鈍い熱さを帯びていった。眉間に力を入れて、なんとか痛みを逃がそうとする。


「見せて」


 知らぬ間に先生は私のそばにいた。私の左手首を掴み、すばやくエプロンから薄青色のハンカチーフを取りだし、傷口を直接圧迫する。私は自分が怪我をしたことよりも、先生のハンカチーフを血で汚してしまったことに胃が締めつけられるようだった。頭ひとつ分、背の高い先生に手首を掴まれ、自然と心臓よりも傷口が高い位置になった。先生の大きな手が、強く私の指を押さえる。


「先生、大丈夫です。私、自分で包帯を巻けますから。作業に戻ってください」

「そんなことより救急箱を取ってくるから、そのまま圧迫してて」


 先生が救急箱を取りに行っている間、私は言われたとおりハンカチーフで自分の指を握りしめていた。先生の時間は貴重なのに、私のミスでただただ浪費してしまっている。ズキズキと痛んでいるのは、指先だけではなかった。


「痛そうだし血もけっこう出たけど、思ったより深くなさそうでよかった」


 先生は手際よく消毒し、絆創膏を貼ったあと、念のため包帯を巻いてくれた。私の震える左手を優しくとり、隙間のないよう、包帯でゆっくりと患部をくるんでいく。先生の右手と左手が交互に私の手を包んでいくところを、おとなしく見ていることしかできなかった。


「今日はもう帰りなさい。作業は明日でも大丈夫だから」

「いえ、大丈夫です。ニスは塗れますから」

「でも、」

「大丈夫です」


 気遣う先生を制して、私は先生の目をまっすぐに見すえた。先生は意表をつかれたのか、喉をぐっと詰まらせた。


 手を怪我したアクセサリー職人など、足手まといの何でもない。作業のペースは格段に遅くなるし、簡単な作業しかできない。私のわがままだと言うことは十分に承知しているけれど、フリーマーケットの日も間近に迫っている。何より、私が先生と過ごす時間を無駄にしたくなかったのだ。


 先生は降参し、両手をあげて溜息をついた。


「わかった。無理はしないでくれよ」


 先生を困らせているのは心苦しいが、今の私にはアクセサリーを作り上げる時間が必要だった。造形が完成している分だけでも先に鍬形虫にニスを塗るため、刷毛と薬液の準備を始める。油断をすると情けなさで涙が流れてしまいそうだった。


 左手が包帯でうまく動かせないが、残った指で慎重に鍬形虫の背中を押さえる。足や顎の細い部分が折れないよう慎重に持ち上げ、塗りもれがないように小筆で塗っていく。まずは暗い色で全体を塗り、その上に焦茶色を重ね塗りする。


 この工房で働き始めた頃、先生に叱られたことを思い出した。まだ削り出しもさせてもらえなかったとき、私が色づけした蜻蛉とんぼのブローチをひとつずつ確認した先生は溜息をついた。


「焦るのは一番よくない。このトレイの上の蜻蛉は、全部塗り直してくれ」


 先生と同じ作業をしても倍以上の時間がかかっていた私は、一秒でも早く作業をこなそうとしていた。その焦りは、当然のことながらすぐに見破られた。私は落ち込みながら、塗料がはみ出た蜻蛉たちの恨めしそうな顔を、ひとつずつ塗り直していった。


 その日の休憩時間、お茶をひとくち飲んだ先生は言った。


「雑な仕事をしていたら、百個のアクセサリーを作ったとしても誰の心にも響かない。でも一個だけでも、丁寧に仕事をして素晴らしいアクセサリーを作れたら、それは誰かの心に残るかもしれない。もちろん売上だって大事だ。でもそれよりも大事なのは、手にとってくれたお客さんを笑顔にするアクセサリーを作ることだ。だって私たちはアクセサリー職人なのだから」


 情けなさで言葉が出ない私を見て、先生は「さっきの蜻蛉、今度は綺麗に塗れているよ」と声をかけてくれた。筆を持ち続けた指の腹が赤く痛んだあの日から、仕事で手は抜かないと決めた。


 すべての鍬形虫にニスを塗り終え、気づいたときには夕方だった。工房の塀の外で、子どもたちが賑やかな声をあげながら帰路についている。鍬形虫は乾燥用のトレイの上で、艶やかな黒い背中を並べている。もう失敗はすまいと集中して作業していたからか、やっと肺が動き出したかのように呼吸が苦しかった。深呼吸をして鍬形虫を細部までチェックする。なんとか怪我の影響もなく、均一にニスを塗ることができたようだ。ムラはなく、卓上ライトの白い光を力強く反射している。ほっと胸を撫で下ろしたところで、声が降ってきた。


「休憩しようか」


 同時に、ふわりとコーヒーの香りが漂ってくる。先生は汗をかいたマグカップをふたつ携えており、そのうちのひとつを私に向かって差し出した。本来私が準備しなければならないのに、作業に集中していて全然気づかなかった。一言お詫びを伝えてから、私は素直にそのコーヒーを受け取ることにした。中身をのぞくと、ブラックコーヒーではなくカフェオレだった。


 ひとくちすすると、ミルクが苦みを和らげ、マイルドな香ばしさが舌の上にひろがっていく。疲れた体に苦みが染み渡り、ミルクのまろやかさが優しく包み込んでくれたのだった。


「美味しいです」

「そう。久しぶりに淹れたから心配だったんだ。美味しいならよかった」


 私が飲み進めるのを見て、ようやく先生もひとくち含んだ。工房の中央にある大きな作業台を挟み、アイスカフェオレをすする音が交互に聞こえるだけになった。


「水瀬さんは無茶するよな。怪我したんだから休めばいいのに」


 私の方に視線を向けず、先生はカフェオレの水面に映る自分に語りかけるようにこぼした。


 アクセサリー職人なんて、怪我の連続だ。火傷はするし、木のささくれは容赦なく刺さる。切り傷なんて日常茶飯事だ。自分が怪我をすると私に触らせもせず絆創膏を貼るだけなのに、私のことになると思い詰めたように心配する彼は、つくづく『先生』に向いていないなと思う。でも、マグカップを握りしめる傷だらけの優しい手を見て、私はこの工房で働けてよかったと思うのだ。


「先生に似たんです」


 いたずら心で言い返すと、先生は「言ったな?」と笑った。してやりました、と、私も生意気に笑ってみせた。先ほどまで心に絡まっていた糸が少しずつほどけていくようだった。


 私の机の上のトレイに並ぶ鍬形虫を、先生は職人の眼差しで見つめている。


「うん、鍬形虫、良い色に塗れてる。よく頑張った」

「ありがとうございます、先生」


 丁寧に仕事をして、誰かを笑顔にするアクセサリーを作る。当たり前なのに難しい。でも最近、少しずつだけれど、先生に近づいている気がする。もっと、もっと先生に追いつけるようになろう。私はそんなことを思いながら、先生が淹れてくれた優しいカフェオレをもうひとくちすすった。


 私はふと、気になったことを先生に尋ねてみた。


「珍しいですね、先生がカフェオレなんて。いつも紅茶か、コーヒーならブラックっておっしゃるじゃないですか」

「そう? 好きだよ、カフェオレも」


 その言葉が、パチン、と私の頬を叩いた。私の顔は一瞬にして笑みが貼り付いたまま動かなくなった。カフェオレの揺れる表面に映り込む自分と目が合って、私は忘れていたことを思い出した。


 ――そうだ、この先生は……。


「水瀬さん?」


 顔を上げると、そこにはいつもどおりの先生がこちらの様子をうかがっていた。私は残りのカフェオレを一気に飲み干し、「マグカップ、洗いますね」と立ち上がった。先生のマグカップを受け取り、足早に給湯室にさがる。ひねった蛇口の水が、コップの中で渦を巻いて白く濁っていった。


 今日の作業をなんとか終わらせて家に帰ったのは、時計の針が十時を指し示す頃だった。服も着替えず、ポニーテールをほどいてそのままソファに倒れ込む。デスクの上に積まれた本に目が留まった。重たい体を半分起こし、その中から一冊、山が崩れないよう慎重に抜き出す。使い古した昆虫図鑑だ。「セミ」と書かれた、ボロボロのページに辿り着く。何度目を通しても、そこには同じ言葉が書かれている。


 セミは地上に出てから短期間で死んでしまうので、日本では古くから無常観を呼び起こさせるものとされており、夏の風物詩のひとつとなっています。


 私は図鑑のページを閉じ、ソファに体を預けて目を閉じた。夜も更け、もう蝉の声は聞こえなかった。


 先生とともに過ごした二日目の夜が、終わりを迎えようとしていた。

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