蝉の置土産
高村 芳
一日目
街路樹の葉を陽光が照らし、坂道は光と影で彩られていた。その絵画は一瞬のアートで、もう二度と描かれることはない。そんな美しさを忘れてしまいそうになるほど、太陽は容赦なく私の肌を焼いていく。「まだ午前中なのに」と太陽に小言のひとつでも言いたくなるけれど、言って涼しくなったためしがない。今朝のテレビの天気予報で、「今日は今シーズン最高の気温となるでしょう」と女子アナウンサーが苦笑いしながら伝えていたことを思い出す。日差しが肌に突き刺さる、という表現があっているかもしれない。背中に汗が伝う感触にうんざりしながら、タオルハンカチで首筋の汗を拭う。なるべく木陰を選び、燃えるようなアスファルトの坂道を足早に上っていく。途中、街路樹が並ぶ隙間から、赤茶色の建物が顔をのぞかせた。
私が通う工房は、一昔前に富裕層の別宅として建てられたレンガ造りの建物を改築したものだ。曲線を描く門灯の飾り柵などは植物がモチーフにされていて、少し西洋の様相をはらんでいる。当時の主人の趣味だったのだろうか。開閉するたびに軋んだ音を立てる鉄製の門扉を開けると、大小の石畳が玄関までのアプローチに並んでいる。アプローチの隣にある小さな花壇には季節の花が植えてあり、古びた
庭に足を踏み入れると、熱気の隙間から水を含んだ清涼な風が私の肌を洗っていった。サァ、と木の葉が擦れ合うような音が聞こえてくる。
「おはよう」
ふいに低い声が響いてきた。敷地内にいるのは私だけだと思っていたので、驚いて声の主を探す。建物の角を曲がって庭の奥をのぞくと、花壇のそばに人影が見えた。
白いワイシャツの袖をまくった男性が、シャワーホースで水をまいていた。細いホースの中から解放され細かな粒となった水は、日差しに照らされキラキラと光っている。心なしか、最近続いていた暑さで元気のなかった草木が嬉しそうな表情をしているかのようだ。ホースが繋がっている水道の蛇口をひねってから、男性が私のほうへ近づいてくる。骨張った手から、水滴が一つ二つしたたった。私は見慣れたその光景に胸を撫で下ろした。
「おはようございます。今日からだったんですね」
「ああ、今年は少し遅くなってしまった」
男性は汚れた濃紺のエプロンのポケットからハンカチーフを取りだし、濡れた手を拭った。そのたくましい手は、相変わらず細かい傷で埋め尽くされている。
「今日からよろしく。水瀬さん」
「こちらこそよろしくお願いします。先生」
傷だらけの右手が私に向かってやおら差し出された。私は改めて背筋を伸ばし、その手をとって握手する。この暑さの中、彼の冷たい手が私の心を涼やかにさせた。
目の前で微笑むこの
ふたりで工房の中に戻ると、陽の光で温められた空気が一気に体にまとわりついてきた。この時期の工房はかなり暑く、額に汗がじんわりと滲む。石造りの建物なので熱が外に逃げていかず、こもってしまうためだ。冷房もあるにはあるのだが効きも悪く、決して良い環境とは言えない。だけども、少し湿った土埃の香りや、窓を開けると流れ込んでくる若い緑の香りが、私は好きだった。
「材料の場所は前から少し変えたので、またわからなかったら声をかけてください。道具の場所は変えてませんから」
「水瀬さんが来るまでぐるっと見て回ったから、大丈夫だと思う。わからなかったらまた聞くよ」
作業場をひととおり案内してから、私も別室で作業着に着替える。作業をするときは白いワイシャツにストレートのデニムジーンズ、そして先生と同じ濃紺のエプロンと決めていた。ワイシャツには洗っても洗ってもとれない塗料がいたるところに残っている。昨年の夏の終わりに切った髪は肩まで伸びており、それを前髪とともになるべく高い位置でひとつにまとめて、作業場に戻る。
この工房に所属している職人は、先生と私の二人だけだ。ピアスやネックレス、リングなど、決して数は多くないがいろんな種類のアクセサリーを作っている。先生が蝉頭なこともあり、昆虫をモチーフにしたものが多い。
先生と私は、早速それぞれの席で作業にとりかかる。三日後に参加する地域のフリーマーケットに出店するためのアクセサリー作りが佳境を迎えているからだ。家族連れが多く子どもも来場するため、いつもは作らない小さめのサイズのリングをつくったり、モチーフの昆虫もデフォルメされた可愛らしいものに変えたりする。この時期特有の細かな作業を、私はなんとかこなしていく。
先生は久しぶりにこの工房に姿を見せたにもかかわらず、黙々と作業に没頭している。今は、丸っこい
専門学校を卒業したあと、アクセサリー職人を目指して私はこの地にやってきた。もう四年前のことだ。いくつか工房を回り弟子にしてくれるよう頼み歩いたが、遠い土地からやってきた女の私を雇ってくれる工房はなかった。そんな中、唯一門前払いをせず、作品を見てくれたのが先生だった。
電話で面接のアポイントメントをとりつけたとき、突然先生に「あなた、虫は平気ですか?」と質問された。もちろん昆虫をモチーフにしたアクセサリーを作っている工房だということは知っていたので、虫が苦手な女だと雇えないと思われたのだろう。この工房を逃せば後はないと焦っていたし、虫に苦手意識も持っていなかった私は、「はい、大丈夫です」と即答して電話を切った。そのときはまさか、先生が蝉頭の人間だとは知らなかったのだ。翌日、この工房に面接で訪れて先生の姿を初めて見たとき、「あの質問はアクセサリーのモチーフの話じゃなくて、『一緒に働く人間が蝉頭でも大丈夫?』っていう意味だったのか」と合点がいったことを覚えている。とにもかくにもそのような縁があり、前に勤めていた職人が辞めてしまったタイミングも相まって、私はめでたくこの工房にアクセサリー職人見習いとして採用されたのだった。
あれから四年が経ち、やっと仕事が覚えられてきたように思う。加工が終わったアクセサリーの数々が、黒い天板に所狭しと並んでいる。窓から差し込む光が反射して、さざめく水面のように煌めいているのを見て、私は大きく息を吐いた。集中してアクセサリーを作っていると、ときどき呼吸していることを忘れそうになる。工房に入りたての頃はどうなることかと不安だったが、先生のおかげで私一人でも作ることのできるアクセサリーが年々増えていった。形や見た目は先生のものより少し不格好かもしれないが、私の目には輝いて見える。
「一息入れるか」
先生は右手で左の肩を押さえて首を左右に傾けている。集中していて肩がこったのだろう。
「じゃあ私、お茶を淹れてきますね」
先生は「頼む」とだけ言って、最後のバッヂの仕上げを終えようとしていた。先生の机の上に置かれている芋虫は、削りたての新しい木目の中で笑っていた。
私は給湯室で手早く紅茶を淹れるために、お湯を沸かし始めた。棚にしまっているキャニスターの中から「DIMBULA」とラベルが貼ってあるものを取り出し、スプーンで茶葉を計量してガラスのポットに入れる。ボコボコと泡が出るまで沸かしたお湯を注ぎ、タイマーをセットした。その間に別のティーポットに氷を入れて準備していると、空気にのってやや柑橘系のような若い香りが漂ってくる。タイマーが鳴った時点で、よく抽出された熱い紅茶を一気に氷の上に注ぐ。氷は音を立ててひとまわり小さくなり、濁りのない赤橙色のお茶ができあがる。紅茶とロンググラスをトレイにのせて、一足先に庭の東屋で待つ先生のもとへ向かう。
「今日はセイロンのディンブラです」
休憩中に飲む紅茶の茶葉にこだわっているのは私の趣味だ。季節にあわせて、調達する茶葉を変える。アイスティーをよく飲むこの季節は、決まってセイロンのディンブラかアールグレイを選んでいる。
先生は椅子に腰掛けて庭に咲く花々を見つめていた。小ぶりのヒマワリに、塀のそばにある支柱に沿って
私が持ってきたアイスティーの氷がからんと音を立てる。先生は「ありがとう」といつも欠かさず御礼を言ってから飲む。喉が渇いていたのか、みるみるうちにロンググラスの中のアイスティーを
しばらく、お互い静かに喉を潤すだけの時間が流れた。蝉の声の中にかすかに女性たちの世間話の声が聞こえる。私は先生の表情をちらと盗み見る。
先生には失礼な言い方に聞こえるかもしれないけれど、私は先生の顔が好きだ。蝉頭である先生の顔の表面は、樹木のようにたくましく、神様に計算されたかのように美しい曲線のパーツで成り立っている。黒や焦茶、橙、薄緑、白などの色が油絵のように美しい筆致で彩色されている。表皮から伸びる二本の触覚は、風を感じているのかゆっくりとそよいでいた。よく手入れされた古い宝石のような深茶色の
「今日はどこまで進んだ?」
先生のグラスはもう空になっていたので、私はポットに入れてきたおかわりを注ぎながら答える。
「ええと、
「いいペースだな。仕事が早い」
先生は無口な職人気質だけれども、私のことをよく褒めてくれる。まだまだ先生よりも断然作業のスピードは遅いし、細工の細やかさもやっと売り物として出せるレベルになったものの、まだまだ修行しなければならないということはわかっている。ただ先生は、物事の細部まで見ることのできる人なのだと私は知っている。私が製作のスピードを上げるために毎日練習をしていることも、道具を使いやすく改良し続けていることも、その黒々とした眼で見て、正面から褒めてくれる人なのだ。私は大いに、先生のその優しさに救われているのだった。
「さあ、もう一仕事するか」
先生は立ち上がり、両拳を夏空に向かって突き上げて伸びをした。もうすぐ夕方だというのに、東屋の日陰にいても額に汗が浮かんでくる。しかし、暑い中でも忙しい中でも、できる限り先生は私と一緒にお茶を飲む時間をとってくれる。少しだけ仕事の話をし、庭先の花を見つめ、お茶の味と香りを楽しみながら静かに過ごす午後のこのひとときを、私は愛している。
「美味しかったよ」
先生が差し出した水滴だらけのグラスを、私は受け取る。触れた先生の指先はザラついていて、表面は冷たいのに内に熱がこもっているような、そんな指だった。「よかったです」と伝えると、先生の樹皮のような口元が緩んだように見えた。
仕事に誠実で、優しい物静かなこの蝉頭の男性のことを、私は「先生」と呼んでいる。
先生とともに過ごす、たった七日間の夏が始まった。
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