白い猿

宇佐美真里

白い猿

「此処ら辺で、白い猿を見掛けたことはないかな?」

森の小径の真ん中で、口を一杯に膨らませたリスに向かい、男は言った。

「白い猿ねぇ…」

口の中の物を、カリカリ…と忙しく減らしながら、リスは訊き返す。

其のリス自身の姿も、頭から尻尾の先まで全て白い毛で覆われている。

白いリス。

「何故、あんたは其の白い猿を探すんだい?」

「いや、あまりにも…其の美しさに目を奪われたものだから…。もう一度、もう一度、此の目で収めたいものだと思っただけなんだけれど…」

「ふうん…。其うかい。で、其れは大きかったかい?其れとも小さかったかい?」

「其んなに白い猿と云う物は何匹も居るのかな?」

「其う其う居るものでもないやね…。だが、大きいのと小さいの…と俺は二匹の白い猿を知っているよ。あんたの言っているのは何方かね?」

「何方だろう…。数年前に一度、遠目に見掛けただけだからな…」

口籠る男に、リスは言った。

「数年前…ってことは小さい方だな…。彼女は亡くなったよ…残念ながら」

「其う…死んでしまったのか…。残念だな…」

男は肩を落とした。其の姿をリスは暫く黙って見詰めていた。

「美しかったんだ…。残念だよ…」

残念そうに繰り返す男に、リスが再び訊く。

「あんた…学者か何かかい?彼女を捕まえて連れ去るのが目的だったとか?」

「いいや、学者でも何でもないよ。山歩きの好きなだけの男さ…」

「其んなに残念かい?」もう一度、リスは訊いた。

「ああ…。もう一度、あの美しい姿を目にしたかった…」

項垂れる男の姿を気の毒に思ったのか?更にリスが質問を繰り返す。

「もし、大きい方の白い猿を俺が知っている…と言ったら?」

「是非、目にしてみたい…。唯其れだけなのだけれど…」

「其うさな…。ううむ…。どうやらあんた、悪い人間には見えないしな…」

一瞬の間を置いて、リスは言った。

「会わせてやるよ…彼に。ついて来な」

其う言うと、其の小さな背中を男に向け、白いリスは歩き出した…。



森の小径を深く進んで行く。白い小さな先導者は時々、背中に従う男を振り返りながら、此れから連れて行こうとしている白い猿について語り始めた。

「其の前に、奴の連れ添いの話から始めなきゃならないんだが…」


少し離れた山の中に猿の群れがあった。

其処に或る日、真っ白な雌の猿が生まれた。全身真っ白な身体。群れの猿は尻も顔も赤い。だが、其の赤ん坊の猿は尻はおろか顔まで真っ白だった。其の赤仔…いや、実際には"白仔"だったのだけれど、其の誕生を群れの猿たちは、歓喜を持って迎えた。"吉兆"だと群れは喜んだ。

偶然だったのか、赤仔がもたらしたことだったのか、其の年の秋には山は実りに潤い、木々は沢山の果実をつけた。猿たちは、口にする物の心配から開放された。毎年、冬を目前にすると猿たちは、一番に其の恐怖を感じていたのだから。

彼等は白猿を"神の使い"だと崇め立てた。"天使"と云う概念が彼等に在ったならば、正に彼女は、"天使"其の物だったことだろう。

だが…。彼女は非常に身体が弱かった。病弱だった…。陽の光に弱く、彼女はいつも暗がりを好んで、一日を過ごさなければならなかった。

彼女は成長すると、群れの頂点に立つ雄猿の物となった。雄猿は群れの全てに慕われる良きリーダーであった。雄猿は白い彼女を愛した。彼女も雄猿を愛した。群れの猿たちは其れを祝福した。


「其して、二年ほど前のことだったよ…」

リスは続けて語った。


二年前の冬、其の年の寒さはいつもの年の其れよりも酷いものだった。群れの猿の何頭もが病に倒れた。身体の丈夫な猿でさえ倒れる様な状況なのだから、身体の弱い白猿は尚更、起き上がることが出来ず、日がな横になる始末だった。不安が群れを襲う。誰ともなく「彼女のせいだ」と言い出した。すると、其れは瞬時に"個"の思いから群れ全体の思いへと変わった。

「彼女のせいだ!」

彼女が群れに居る限り、病は自分たちを苛み続けるに違いない…。

「追い出せ!」

其の考えが群れ中を覆い尽くすのに時間は掛からなかった…。

彼女は"天使"から一夜にして"悪魔"と忌み嫌われる存在となった。"神の使い"は"神の怒りを買う者"へと、"白い悪魔"へと変わってしまった…。


「見方なんて、一瞬にして変わっちまう…。空気が変わっちまったんだ…」リスは続けた。


群れのリーダーは選択を迫られた。リーダーとして群れの行方を案じ、連れ添いを群れから追い出すか?リーダーの座を降り、連れ添いと共に群れを去るか?リーダーは白い連れ添いを愛していた。

「共に群れを去る」リーダーは言った。即断即決だった。

「私が群れを去る。貴方は"長"として群れに残って」白猿は懇願した。

リーダーは決して首を縦に振ろうとはせず、彼女と共に群れを後にした。群れの猿たちは、リーダーと其の白い連れ添いの背に、唾を吐き石を投げた…。


「其の頃、俺は奴等に出逢ったのさ。俺も同じ様な境遇だったからね…。"白い"は"醜い"ってさ。幸いにも俺たちリスは、群れで過ごす生き物ではない。特に虐げられた…と云う訳ではないがね…」

白リスは自嘲的な笑いを、其の顔に浮かべながら言った。

「奴は、弱った白い連れ添いの世話で付きっ切りだった…。奴の其の姿にやられちまってね…。まるで自分が"想われて居る"様な勘違いをしちまったのさ…俺は」


「人間も一緒だよ…。祭り上げていたかと思ったのも昨日のこと。今日には蔑み、憎しみの対象へと変わってしまう…。理由なんて特にない。正に表が裏に変わるが如く、一瞬に変わる…」

男が悲し気に呟くのを、リスが見上げた。

「あんたも同じ目に?」

「いや。でも、其んな光景は、何度となく目にして来たよ…」

「そうか…」リスは口を噤み、黙ったまま彼等は小径を歩き続けた。


「さぁ、此処だ…」

森の小径から外れ、暫く木々を分け入った処に僅かに見える穴の前で、リスはようやく立ち止まると、男に言った。

「此処で待ってな…。俺が奴に説明をして来る。でないと、奴に襲われちまうからな…」

小さな白い先導者は穴へと姿を消した。


どれくらい男は穴の外で待たされたことだろうか。

リスは穴の中から姿を現すと言った。

「ようやく納得させたよ…。入って来てもいいとさ。だがな?奴の傍らにある物には、絶対に手を触れるなよ?奴も弱っているとは云え、"其れ"に触れようとする者に何をしでかすか…俺も分からんからな。其のくらいの気力は残っている筈だ…」

白リスが其う言いながら促すので、男は頭を低くして穴に入って行った。入口は男が何とか身を通すことが出来る程度の狭さでしかなかったが、其の狭さもすぐに終わり、奥は想像よりも広くなっていた。しかも適度に明るい。穴の上方には別の穴が在り、其処から明かりが差し込んでいる。辺りを見回す男の正面に、白い猿が横たわって居た。此方も男の想像と違い、かなり大柄な猿だった。やはり数年前に男が目にしたのは、此の猿ではなかった様だ。


「此奴に…会いに…来たって?」

低くくぐもった声がゆっくりと男に掛けられた。白い猿の言う"此奴"とは、どうやら彼の傍らに在る物を指している様だった…。白い猿の傍らに在った…其れ。

其れは白い骨だった。

一式の、かつて猿の物であったと思われる白い骨…。恐らく命が消えた後も、其処にずっと横たえられたまま朽ち、其のまま骨と化したのだろう。其れは彼の…かつてリーダーであった猿の連れ添いの、白い雌猿の物だろうと容易に察しが付いた。

「はい。彼女に会いに…」

おずおずと男は口を開いた。


「ありがとう…」


変わり果てた連れ添いの骨の脇に横たわったまま、白い猿は言った。

「貴方も白い姿をしていたんですね…」

男は自分を見詰める白い猿に向かって言った。だが、かつて男が目にした彼の連れ添いの様に、全身真っ白…と云う訳ではない。かなり薄くはあったけれど、其の顔は白ではなく赤だ。其の顔は男の知る普通の猿の如く赤い。


「いや。奴は普通の猿だった…群れを離れて暫くするまでは…」

リスが代わりに答える。猿は黙ったままだ。

「連れ添いの脇で、弱って行く其の姿を見ているうちに、奴の毛の色は白へと色を落として行ったんだ…」

元リーダーの"白"は先天性のものではなく、後天性のものだとリスは説明した。心労の余り、一夜で白髪に…とは耳にするけれど、果たして其う謂うことだったのだろうか…。

「奴は此の穴に彼女と籠る様になって以来、其の傍らを片時も離れなかった…。今の今まで…」

「彼女が亡くなったのは?」

「一年くらい前かな…。二年前に、此の穴に遣って来て以来一年、奴は連れ添いの脇を片時も離れたことがない…」


「彼女は俺の為に…生まれ、俺も彼女の為に生まれたのかも…しれない。此の世には………、深い…絆で…結ばれた者が、確かに…居るのだと…、俺は知った様な気がしたよ…」

白い猿は、ふらつく身体をゆっくりと起こしながら言った。横たわる白い骨の前に胡坐を掻く。痩せ細った其の身体は背も丸く、相当に衰弱している様だったが、其の瞳には未だ強い輝きを宿っていた。


「"生き死に"に関わらず、絆はずっと………続く…んだと云うことが分かった…。彼女に会いに来てくれて…ありがとう…」


ふと、白い何かが猿の身体から舞い立つ様に見えた。

上方から差し込む光の中に舞う。其して、消えた…。


男は、骨の前の猿へと視線を戻す。

強い輝きを見せていた其の瞳は閉じられ、首は項垂れている。口元が僅かに笑っているかの様に見えるのは気のせいだろうか?


「美しい…」

思わず男は口にした。


猿の薄赤かった顔は真っ白に色を変えていた。

薄赤かった其れは燃え尽きたかの如く、真っ白へと色を失っていた。

「美しい…」

男はもう一度、同じ言葉を口にする。

目の前に佇む其の姿は、かつて男が心奪われた、彼の連れ添いの姿と同じく、美しかった。


「燃え尽きちまったな…」男の傍らでリスが呟く。


「燃え切った…真っ白に…。真っ白に…燃え尽きたんだ…奴は。此れで本当に一緒になったんだな…連れ添いと」


男は黙って頷いた…。



-了-

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