フミキリ

1103教室最後尾左端

フミキリ


 朝比奈アカネ先輩を知らない者はこの街にいないと言っても過言ではないだろう。


 容姿端麗、眉目秀麗、月下美人など、美しさと儚さを兼ね備えた容姿に、彫刻と見まがうほど均整の取れた肢体。学業も優秀な上に、人当たりも優しく社交的。神が「僕が考えた最強のモンスター!」とか小学生みたいなこと考えながら割り振ったとしか思えないような超人的パラメーターを持っている朝比奈先輩だが、彼女の真骨頂は別にある。


 朝比奈先輩は高校生でありながら、凄腕のバレエダンサーだった。


 幼少のころからその才能は突出していたそうで、その界隈では「神童」と呼ばれていたと噂されている。高校一年生の時から数々のコンテストを総なめしていたようで、三年生になった今でも、全校集会が行われるたびに先輩は表彰されていた。その功績から、海外のバレエ団からのオファーも受けているらしい。学校にも何度もテレビの取材が来ており、知名度はもはや全国レベルと言えるだろう。将来は世界的なダンサーになることが夢なのだという。


 こんな人間がこの世に存在するとは、にわかに信じがたい。きっと酔っ払った神が深夜テンションのままお作りあそばせたのだろう。いっそやけくそみたいなてんこ盛りスペックである。


 一方の僕、村上良一は、神がその翌日二日酔でぐったりしながら、反省まじりに作ったであろうことが推察される低スペック人間である。


 一人暮らしの男の自炊くらい大雑把でなげやりな匙加減で神が割り振った僕のパラメーターには、特徴という特徴がなかった。顔面は体型に関しては可も不可もない(もちろん「良」も「優」もない)。学力やスポーツにいたっては平均以下。これと言った才能も趣味もない。もちろん将来の夢もない。休日はスマホをいじっているうちに溶けてなくなるという無個性ぶりである。


 そんな僕からすると、僕と朝比奈先輩が生物学上は同じカテゴリーに属するという事が性質の悪い冗談にしか聞こえない。いや、本当に人間なのだろうか? 人を化かしに山から下りてきた美しい妖狐とかの方がまだ納得がいく。


 今日もマウンテンバイクにまたがり、僕の隣でフミキリが開くのを待っている先輩を見ると、僕の疑問はますます深まった。


「先輩って本当に人間なんですか?」


「なに急に……人を妖怪みたいに……」


 僕が思わずそう問いかけると、怪訝そうに眉をゆがめながら先輩がこっちを向いた。ゆがめているのに整っているという矛盾を平然とやってのける彼女の顔面を僕は直視することができなかった。眩しい。高級フライパンみたいにダイヤモンドでも混ぜ込んであるんだろうか。


「悲しいなー。後輩から人間扱いされないなんて……」


 大げさにがっくりと肩を落とす先輩。


「いや、そんなつもりは……」


「あー。傷つくなー。あまりの衝撃に心の関節が亜脱臼したなー」


「亜脱臼て……」


 これは…… 関節の柔軟性を重要視するバレエダンサーギャグなのだろうか? 心の関節ってなんだ。折れ曲がること前提にした構造の心とか前向きなのか後ろ向きなのか分からない。僕はどうにか話題を変えることにした。


「あの、先輩?」


「ん? 妖怪になんかようかい?」


 泣きまねをやめてニパッと先輩が笑う。ノリノリだった。


「……急に寒くなってきましたね」


「そうだね~もう冬だもんね~」


 カラカラ笑いながら先輩は言った。そう言う事ではない。が、先輩が言うと寒いギャグもきらめいて見えた。さながらダイアモンドダストである。


 しばらく喋ってみて分かったことだが、先輩は結構くだらない冗談が好きだった。そう言うところが庶民的、というか親しみやすさにつながっているのかもしれない。


 が、彼女の影の努力は計り知れない。将来の夢に向け、日夜専属のトレーナーと特訓をしているそうだ。バレエダンサーとして食べていくという事は本当に難しいことで、彼女ほどの実力があっても安定した生活が送れる確証はないらしい。


 そんな過酷な世界に身を置いてなお、こうして明るく振舞うことができる先輩は、何も持っていない僕にとって憧れだった。


 先輩はひとしきり笑うと、フミキリの向こう側に視線をやった。


「……にしても、やっぱり長いね。このフミキリ」


「……地元でも有名ですからね。この『開かずのフミキリ』」


 学校へと続く道に門番のようにそびえるこのフミキリは、駅に隣接している上に、四本の線路が通る。朝の通勤通学時間ともなれば、ひっきりなしに電車がやって来くるため、一度引っかかってしまえば、少なくとも五分は遮断機の前で待つことになる。


 こんな障害物さえなければ、僕はもう少しだけ惰眠を貪ることができただろうし、気持ちゆっくり朝ご飯を食べられるだろう。


 もちろんその場合、先輩とこうして話すこともなかっただろう。



 どうして。


 彼女の姿を見るたびに、彼女と言葉を交わすたびに、疑問が浮かぶ。彼女は僕と話してくれるのだろう。文字通り住む世界の違う、僕のような人間に声をかけてくれたのだろう。それが僕には不思議で仕方がなかった。



 もしかすると。



 その疑問を考える時、いつも邪な考えが僕の脳に浮かぶ。


 本当にありえないことだけれど。

 僕は何もない人間だけれど。そう自覚しているけれど。


 先輩は、僕の何かに惹かれているのではないだろうか。


 そんなわけはない。とは思っている。思い上がりも甚だしいと、頭では分かっている。


 なのに、そんな都合のいい空想が振り払えない。


 綿菓子みたいに中身のないまま膨らんでいく甘い妄想が頭の中を満たしていく。


 こんな時間が、フミキリを待つ時間がいつまでも続けばいいと、そんなことさえ思った。



「……お、フミキリ開いたね。じゃ、村上君。また明日」



 いつの間にかぼうっとしていた僕にそう声をかけると、先輩は自転車をこぎ始めた。スカートから伸びる足は細く長く、それでいて力強さがあって、美術品みたいに綺麗だった。


 学校で僕と先輩が話すことはない。学年も部活も見えない生徒間の階級も、何もかも違うのだから当たり前だ。だから、朝のフミキリを待つこの五分間が僕と先輩の全部だった。


 僕はもう、離れていく彼女の背中をぼんやり見つめることしかできなかった。



 半年前、フミキリを待っている僕に朝比奈先輩が声をかけてくれた日から、僕たちは色々な話をした。そのほとんどが与太話であり、話し相手が僕である必要は全くないようなことばかりだった。


「目黒駅って目黒区にないんだって。品川区なんだって。詐欺じゃない? コレ」


「『クリーム色』のクリームって何クリーム? まさか生クリームじゃないよね?」


「印象度って限りなく印度象に近いよね」


 などなど。ひどく取り留めもない話ばかりだったが、先輩はいつも楽しそうだったし、先輩と打ち解けられているみたいで僕も嬉しかった。



 そして、僕は今日も先輩と話すことができている。



「君、結構な猫背だよね。巻き肩でケンコウコツが外側に広がっちゃってるよ」


「……それじゃフケンコウコツだ、ですか?」


「……? なんでわかったの?」


 先輩はぽかんと口をあけて、目を丸くした。間抜けなはずの顔まで美人である。


 僕が先輩の言葉をあてられたのは、単に一度このやり取りをしたことがあったというだけだ。


「……忘れませんよ。先輩が初めて僕にかけた言葉じゃないですか」


 そう、半年前、朝比奈先輩が初めて僕に話しかけてくれた時の言葉だった。そんな言葉で始まったのもどうかと思うけど……。


「そうだったっけ……同じネタを二回もやるなんてなぁ……」


 先輩はちょっと悔しそうに眉根を寄せた。妙なところで律義な人だった。



「……あれからもう半年ですか……時が流れるのは早いですね」



 何気なく、僕はそう言った。それはもう本当に単なる雑談で、世間話で、何の気なしの言葉だった。


 しかし、先輩の顔は曇った。いつもの泣きマネやわざとらしい落胆とは違う。見たことないくらい、真剣な顔だった。



「……全然。早くなかったよ。のろまで、ゆっくりで、嫌になっちゃうくらい」



 先輩の声はとげとげしかった。聞いたことのないトーンに、僕はたじろいだ。そんな僕をよそに、先輩は、フミキリの向こう側の、さらに遠くを見つめていた。


「……ねえ。このフミキリって学校みたいじゃない?」


 朝比奈先輩は、僕の方を見ずにそう言った。先輩の横顔は、絵画のように美しくて、彫刻みたいに寂し気だった。


「それってどういう……」


「行き先が決まってる人も、決まってない人も、速く進める人も、ゆっくりしか進めない人も、みんな一回ここで止まらないといけない。フミキリのこっち側で、行っていいよって言われるのを待ってなきゃいけない」


 話し始めると、先輩は止まらなかった。


「私、ずっと前からウィーンのバレエ団に勧誘されてたんだ。私はすぐにでも行きたかった。向こうで顔を売っておきたかったしね。でも、親も教師も高校くらいは出ろって話を聞いてくれなかった」


「……」


「ずっともどかしかった。やりたいことははっきりしてるのに、行きたい場所がくっきり見えてるのに。それなのに、『高校生』をやらなきゃいけない。それがとっても、もどかしい」


 その口調にははっきりとした芯があった。きっと僕には想像もつかない努力と葛藤が、先輩にはあったのだろう。


 先輩の言葉には、僕のような将来について何も考えていない人間を、フミキリがいつまでも開かないままでいて欲しいなんて思っている僕を、打ちのめすには十分すぎる重さがあった。


 僕が何も言えずに押し黙っていると、先輩は深い溜め息をついた。



「わかんないよね。何にも持ってない村上君には」



 声が出なかった。出そうとしても、乾いた空気が喉を通るだけだ。


 先輩の言葉に嘘はない。確かに僕には、容姿も、才能も、将来の夢も、何もなかった。


 でも、だったらなんで……。


「先輩は、僕に話しかけてくれたんですか?」


 絞り出すように言った僕の言葉に、先輩は切り捨てるような冷たい声で言った。


「別に。暇つぶしだよ。村上君に限らず、学校のことは全部。フミキリを待っている間の、暇つぶし」



 またしても、僕は何も言えなくなってしまった。


 僕の甘すぎる妄想、先輩が僕の何かを好いてくれているのではないかという幻想は、「暇つぶし」という言葉で粉々になってしまった。



「……気を悪くしたよね。ごめん。私、もう行くね」



 先輩はそう言うと自転車をこぎ始めた。とっくにフミキリは上がっていた。


 先輩の姿はすぐに見えなくなってしまった。でも僕は、いつまでもその場から動けなくて、何度も上がったり下がったりする遮断機の手前で茫然としていた。




 その日からしばらく、僕は時間をずらして学校に行くようになった。先輩に会わないように、遅刻すれすれの時間に学校へ向かう。何となく、先輩に会うのが嫌だった。


 何もない人間だと明言されて、僕との時間は暇つぶしだったと知って。


 学校生活全体が、彼女にとってもどかしい待ち時間に過ぎなかったと知って。


 彼女と何を話せばいいか分からなくなった。

 

 たった十数分、家を出る時間を変えるだけで、僕と朝比奈先輩の関係は驚くほど簡単に途切れた。フミキリは本当に単なる迷惑な障害物に変わった。今となっては、先輩と同じようにこのフミキリの待ち時間は疎ましいものになっていた。



 もう、先輩に会うことはない。だから先輩のことは、丸ごと忘れてしまおうと努力した。



「の、はずだったんだけどな……」

 


 努力の甲斐もなく、あの日から僕は、一日中先輩のことを考えるようになってしまっていた。


 今までのくだらない雑談を思い返して、ああいえばよかったとか、こういえばつながったとか、そんなことばかり考えてしまっていた。



 悔しいけれど、何もない僕にとって、先輩と話す五分間は、僕の人生の中で最も輝いている時間だったのだ。



 例え先輩にとってはただの暇つぶしでも。


 例え先輩がフミキリを待つ時間に嫌気がさしていたのだとしても。



 そのおかげで僕は先輩と出会えたし、先輩と言葉を交わせた。


 それは、僕にとって、先輩が求める将来と同じくらい大切なものだ。


 

 そのことを、伝えたいと思った。

 先輩がフミキリを渡ってしまう前に。




 そう思い立った次の日、僕は早朝から例のフミキリの前で先輩を待ち伏せした。暦はもう三月になっていた。

 

「……久しぶり、だね」


「……そうですね」


 先輩は僕とフミキリを待っていた時と同じ時間にやってきた。彼女がやってくるちょうど直前に遮断機が下り、僕らは何も言わず、フミキリの手前で立った。先輩も黙ってマウンテンバイクに体重を預けている。

 

 色々言いたいことはあったし、セリフも用意してきたはずだったのに、いざ先輩を前にすると、何も言えなくなってしまった。


 電車が、フミキリに隣接する駅に留まった。あの電車が目の前を通り過ぎたら、きっと遮断機が上がるだろう。時間がない。僕は、無理やり口を開いた。


「……もうすぐ卒業ですね」


「……うん」


「……フミキリようやく渡れますね」


「……うん」

 


 何度かの相槌の後、先輩は心底すまなそうに言った。

 


「……ごめんね。あんなこと言って。何もないとか、暇つぶしとか言っちゃって……」



 どうやら、あの時のことを、僕に責められると思っているらしい。不安げな顔を見たら、なんだか力が抜けてしまった。



「……先輩はすごい人です。将来のこと、まっすぐ見つめてて。それに比べて、僕には何もない。だからあなたの気持ちは分からないです」



 そう、僕には先輩の気持ちなんて分からない。一秒先の自分のことも分かっていないんだから。



 でも、それはつまり、今この瞬間、何にでもなれるってことだ。



「朝比奈先輩、僕は……」



 その時、僕らの前を、最後の電車が通り過ぎた。



 次の瞬間には、けたたましい警報機の音が途切れ、わずらわしい赤い光の点滅も消える。電車が通りすぎる時の生ぬるい風も、線路を伝って足元まで届いていた振動も、急に止まった。



 まるで、世界がふっと時間を止めたみたいだった。



 今しかない。遮断機が上がる前に、先輩が、フミキリを渡る前に、僕は言わなければならない。






「あなたが……好きだ!」






 妙な静けさの中、僕の声は世界中に響き渡った。


 僕の言葉を合図に、というわけではないだろうが、世界はゆっくりともとに戻った。遮断機がゆっくりと上がり、待っていた歩行者も自転車も車も、自分が進まなければいけないことをやっと思い出したかのように、妙にのろまに動き始めた。



 先輩はきょとんとしていた。口を半開きにしたそんな表情も、やっぱり綺麗だ。


 この告白が、上手くいくかとか、先輩と付き合いたいとか、そんなことはどうでもいい。僕はこの先輩の呆けた顔を見られただけで十分だ。



 今日は、茫然とする先輩を置いてきぼりにしてみよう。

 彼女より先にフミキリを渡りきってしまおう。


 僕は顔がほころぶのを感じながら、できるだけ強く、地面を踏み切った。

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