第10話


 私の夢に千晶が出てきたのは果たしてその一度きりだった。もしくはその夢が鮮烈過ぎて他のことが霞んでいるのかもしれないけれど。

私は大きな月を隠した薄雲の下、背の高い木々に囲まれた狭い道を歩いていた。それも普通の道でも獣道でもなく、よりによってそこにはかつての小中学校や高校のクラスメイトたちの屍体がびっしり敷き詰められていた。その道しかなく、私は吐き気が込み上げるのを我慢しながら、誰かの背骨の感覚を足の裏で踏みしめていた。どういう原理かは知らないが、こんな現実には有り得ないことでも、夢から覚めた時に妙に生々しい感触が残っているからたちが悪かった。かといってどうにかすることも私にはできない。結局のところ夢の中ではそこでの私が意志決定を行なうのであって、私はそれを上から見ているようなものなのだ。だからその私の考えていることも手に取るようには分からないのだが、かといって恐怖とか痛みとか悲しみなんかは身体に精神にじかに響いてくる。それは操り人形の気持ちに似ているかも知れない。もしくは盲目な籠の中の鳥。その時、私は怯えていた。一歩一歩に怯え、しかし進まねばならない境遇に嫌々従っていた。自然と流れた涙が横たわる誰かの青白い顔に落ちるだけで得体のしれない恐怖を感じた。開けた場所には出そうもない雰囲気にも失意を感じていたが、後ろを振り返ると闇が待っているばかりで来た道も充分に距離のあるもので戻ることなどできない。私はなぜこんなにも人が死んでいるのか考えた。もしかしてこれは私がどこかで殺してきた人たちなのではないか。自らの欲望を叶えるために踏み台にして、それ以来目もくれて来なかった過去の犠牲者たちなのではないだろうか。一旦そう思うと、その思考は頭の裏にしぶとくこびりついて、私を余計に恐怖に駆り立てた。もしそれが本当だとしたら、私が特に考えることもせずしてきたことはこんなにも重みのあることだったということになる。私の行動一つで誰かの屍体ができてしまう。未来に進めば進むほど、この道は伸びることになり、私が踏む屍体の量は増えていく。私は果てしないこの道の先を思い、いつしか焦りを抱えて走りだしていた。もたもたしていたらいつまで経っても抜けられない。しかし走っても走っても誰かが先で暗幕を垂らしているかのように光射す出口が見えてくることはなかった。精神的な疲れが押し寄せ、注意力が散漫になっていたのだろう、私は不意に何かにつまずいた。転びそうになるところを何とか体勢を整えて、つまずいた場所を振り返ると、そこには誰かの手が浮いていた。横たわった人の手が、手首から先がまるでそれ自体で一つの生き物のように、海底で漂う若布のように揺れていた。全身の鳥肌が立つのが分かった。私はくらくらした。よくよく見てみれば遠くでもすぐ近くでもいたるところで手が上がっている。何のため? 私の足首をつかんで転ばせるため? 私はもうどうしたらいいか分からなかった。おそらく行く先でも同じなのだろう。誰もが私の敵だった。私は頭を掻き毟って絶叫した。それですら誰かの身体の上でなのだ。私はここにいることの気持ち悪さに耐えきれなくなり、息を吸うことすらもしたくなかった。蠢く闇が私に覆い被さって、私の中へと不遠慮に流れ込んできた。知らない人にされているような最悪の感覚。何もかもが不気味で私は私でいられなくなりそうだった。視界が真っ暗になって、私は知らず知らずのうちに足首に隠し持っていた短刀を取り出していた。一刻も早くこの状態から抜け出さねばならなかった。私に躊躇はなかった。私はそれを握りしめて、震える喉元に向けて一気に振り下ろした。痛そうだったが、それで楽になれるならという思いだった。しかしそれは叶わなかった。尖った鈍色に光る刃先を細い手がしっかりとつかんでいた。綺麗な赤が闇に溶けた。見上げるとそこには千晶がいた。彼女は刃物を持った私の手を下ろさせ、「さあ行こう」と言った。私が何も言わずにいると、もう一度「さあ」と言って私の手を取って身体を起こさせた。そして彼女は私の両肩を強くつかんだ。私は自然と千晶の両目を見つめた。その透き通る茶色の眼球と、そこに映る自分の姿を。私は吸い込まれそうな思いがした。事実、不思議とその時には私は既に他のことを忘れていたのだ。私の頭の中には彼女のことしかなかった。一瞬、視界に閃光が走り、何もかもが眩い光に包まれて、気がついた時には私たちは二人だけで手を取り合って宇宙のように何も見えない闇の中に浮かんでいた。木々も、足元の屍体たちも、空もそこにはなかった。ただあるのは岩瀬瑞香と深織千晶という二つの生命体だけ。彼女は神妙そうな顔で「じめじめした場所は嫌ね」と言った。私はなんだか可笑しくなった。そうするとずっと硬い表情をしていた彼女もつられて顔を和らげた。そこで私は夢から醒めた。久しぶりの心地よい起床だった。


 それからというもの夢の旅は強烈なイメージを再び脱色した。何事もなかったかのような砂漠だけが私の前に広がっていた。日照りもそれほどきつくなく、水辺もぽつぽつとあったし、敵も現れる気配がなかった。常に気にかけていた追手すらもういないような気がした。私は一人でいまだどこかには向かっていたが、何の心配の必要もなくなったことが感覚で分かった。しかし呪縛から解き放たれたかのような解放感や爽快感はあったものの、私としては簡単に喜べないところがあった。つまりそれは緊密になった糸をほどくということで、私の傍から彼女がいなくなってしまうことを意味するからだ。

 それから一週間ほどが経って、私は思い悩んでいた。その間もほとんどの日を千晶はうちに来て、一緒に過ごしていた。しかし悪い夢を見なくなったことに彼女が気づくのは時間の問題だろうと思われた。私はもうすっかり蚕の糸に縛りつけられたように無力で貪欲な虜になっていた。千晶がチャンネルを変えたり、シャワーから出たり、皿を洗ったりと何らかの動作をする度に彼女の新しい側面が垣間見えるようで、私は彼女との日々に密かに鼓動を高鳴らせ、胸を疼かせていた。それに私が大学に行く気になるのもそこに彼女がいるからだった。私は彼女が悪夢による私の心労をいたわってくれるよりも、むしろ彼女との日々で悪夢のことも我慢できるような調子だったのだ。しかし天秤の一方を担う機能は消失してしまった。私はしばらく考えてある決意をした。自然に今の関係が霧消する未来は見たくなかった。凍てつく闇が辺りを満たしたある夜に、彼女と私はいつもと同じく一つの布団で身を寄せ合って横になっていた。薄い窓の向こうで風が鋭く鳴るのが聞こえていた。

「こないだの雑誌に載ってた喫茶店、今度行きたいね」

「ああ、隣駅のだよね。でもあそこは秋期限定のモンブランが有名らしいよ」

 こうして電気を消した後、私たちは秘め事のように二言三言交わしながら眠りにつく。けれど今夜は特別に仰向けに寝ている千晶に身体をぴったり寄せ、目を瞑った彼女に頬擦りした。悪夢から目覚めた時でもないのにこんなことをするのは初めて千晶がうちに来た時以来だった。彼女はくすぐったいような吐息を漏らした。その甘い声と染みついた体臭が私の脳に響き、心拍数を上げた。私が彼女の薄い唇に口を持っていき、そっと舌を挿し込む時になって彼女は目をうっすらと開けた。彼女が目の前にいるのに、ごつごつした私の心の底には隙間風のようにどこからか侵入したがさつな寂しさが濃霧となって降り積もっていた。私はそれに駆り立てられ、考えるよりも先に身体が動いていた。私は布団の中で彼女の寝間着のボタンを指でひとつひとつ外していく。彼女は心配そうな目で私の襟足に手を伸ばし、髪を指で梳いた。私が悪夢を怖がっているのを気遣っているのかもしれない。彼女は素直に私に身体を任せていた。

 私たちは身につけるものを失くして互いに触れ合っていた。普段であればかじかむような夜でも、私は少しも寒くはなくむしろ彼女の身体に温かみを感じた。彼女は外見通り痩せて色が白く、貝細工のような綺麗な肌をしていた。私は横になりながら千晶の小振りの胸やその下の肋に舌を這わせ、彼女の声を聞いた。彼女は柔らかく私を抱きしめてくれる。細い指が私の髪を撫でる。私はだんだんと欲望の歯止めをなくしていった。彼女も抵抗をすることはなかった。私はいつまでもこの時が続くことを祈った。儚い一瞬が永遠に止まればいいと思った。しかし真っ直ぐな木の枝を無理に曲げたらパキンと音を立てて二つに折れてしまうように、物事にはそうあるべきということがあるのだ。顔を上げた私を見据えた彼女の瞳の奥がそのすべてを物語っていた。堰を切ったように、深夜のひややかな空気が私の心にどっと流れ込んでくる。それから逃げるように必死で千晶の身体を貪っても、もう私の中には氷のように冷たい悲しさが沈殿していくだけだった。私は彼女に訊いた。

「千晶、私がかわいそう?」

私はもうどんなに彼女に触ったところで彼女には辿りつけないのだろうと思った。不意にかつて別れた彼のことが頭をよぎった。もしかしたら彼もこんな気持だったのだろうか。私は急に疲れが出て、潮が引くように興奮も見る間に色褪せ、彼女の上に倒れ込んだ。

千晶は優しそうに目を細めて私の腹に右の太股を載せ、私の脇から背に腕を挿し込んで後ろ髪を触った。千晶の息が私の首筋にかかる。

「どうしてそんなこと思うの?」

「だって、私は――」

 私は千晶を好きになっていた。ずっと触れていたかった。けれど千晶が持っているのは憐憫と同情でしかないのだ。言葉が繋げられない私に彼女は穏やかに声を掛けた。

「瑞香は私を信用していないのね?」

 違う。そうじゃない。視界が滲む。千晶が言っているのは間違いなく、千晶が私の不安を取り除く役割に適うかどうかだ。私が訊きたいのは、あなたが好きなもののことだ。私はあなたを愛しているけれど、あなたが愛するものは何? しかしそれが私の口から発せられることはなかった。私は怖かったのだ。なぜならそれを尋ねることは今のままではいられなくなることを意味しているからだ。彼女の首に涙が落ちた。千晶はゆっくりと私に口づけをした。情熱も情欲もない慰めの接吻。点から線となった涙は、純真な千晶から私の汚れた心を隠してくれるようだった。


□□□


 千晶はモンブランに乗った大きな栗を口に放り込んだ。

「解けない問題というのが世の中にはあるわ。解くことは叶わないし、解く必要もない」

 彼女は口の中で栗を転がせながら言う。誰かが店から出て行ったのか、扉につけられた鈴がカランと音を立てた。

「でも、おそらく……」

 私は何も言わずに、千晶の輪郭を縁どる線を確かめている。そこから不意に零れ落ちる何かを見逃さないように。

「あの男の子の件は、時間が解決してくれるでしょうね。そこまで彼に根気があるとは思えないし、それに彼はそもそもまだ周りが見えていない。受験が終わった時には、めでたく今彼を蝕んでいる閉塞感からも抜け出して、私への興味も失っているだろうし――」

 私は彼女が考えに耽るのを目に、手を伸ばして最後の一欠片をフォークで刺し、そのモンブランを私の口へと運んだ。そして「あっ」と声を出す彼女の前で私は幸せそうに頬に手を当てる。

「おいしい」

 こうやってゆっくりと少しずつ私は彼女に近づいていくのだ。その心がすぐにはつかめなくても、時間が隙間をつくっていっても、手に残った微かな砂の感触を確かめて彼女を次第に見つけていくのだ。私はその仕方を他でもない彼女から学んだ。

(了)

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砂の感触 四流色夜空 @yorui_yozora

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