10
麻酔薬の込められた短筒を受け取ると、老人の部屋を辞去した。ペトラがトールシップとともに最上階へ赴き、デッキから空へと飛び出していく手筈だ。
武器を手渡し、作戦を伝達し、速やかに離脱する――それが老人からペトラへの指示だった。雲鮫の群れは、敵意を見せた者には決して容赦しない。中途半端に場に居残るのは危険が大きすぎ、かえってイルマの集中を削ぐことにも繋がる、というのが彼の意見だった。
「逃げるときは、逃げることにだけ集中することです。迷えば、即座に殺されましょう。これは脅しで言っているのではありません」
経路となる階段は、廊下を出てすぐのところにあった。もう間もなく、次なる作戦が開始される。イルマに続いて、今度はペトラ――。
振り返った彼女と視線が交わった。どちらともなく向かい合う。
先になにか告げようとしてか、ペトラが唇を震わせた。しかし声が言葉になりきらないうちに、彼女はかぶりを振って打ち消した。
潤んだ瞳がこちらを見据えていた。ネア、と叫び、強く抱き着いてきた。
「行く前にひとつだけ、言いたいことがあるの。私ね、ずっと――」
語尾が曖昧に消える。えっと、と彼女は先を続けようとしたが、ネアは待たなかった。
ペトラ、と名を呼び、顔を寄せる。このうえなく不器用で、不自然な動作だったに違いない。しかしどうでもよかった。小さなためらいを振り払い、肩に手を乗せる。
頬にそっと、唇を押し当てた。言葉を失っている彼女に向かい、精いっぱいの勇敢さを奮い起こしながら、
「旅の、お守り」
「ネア――」
ゆっくりと体を離し、再び見つめ合った。あの日のイルマと同様、ペトラも頬を指先でなぞりながら茫然としていたが、それも僅かなあいだだった。大きく丸い目の縁を拭うと、すぐに身を翻してトールシップに飛び乗った。
風が起きる。空魚が瞬く間に上昇していく。首を反らせて目で追いかけたが、ペトラはちょうど頭を低め、飛行の準備態勢に移っている最中だった。力強く激しい羽ばたきに混じって、声だけが響く。
「ありがとう。私、絶対に戻ってくるから。帰ってきたら何倍にもして返すから」
うん、とネアは繰り返し頷いた。彼女たちの後ろ姿が、羽の音が失せてしまったのを確認してから、廊下に備え付けられた窓を覗く。まさにその瞬間、白銀の光が空を切り裂くように飛翔するのが目に入った――。
「勇敢なご友人をお持ちですね」
背後からクレイに語りかけられた。窓際へと近づいてくる気配があったので、一歩横に動いて場所を作る。彼と隣り合うと、ネアは少し俯きがちに、
「私だけが残るのは心苦しいです。ふたりとも必死で戦っているのに」
「そう気に病むことはありません。この船とて危険であることに変わりはないのですから」
「そうかもしれませんが――自分だけ、なにもできないなんて」
「さっきご友人が仰っていたでしょう、自分には自分の役目があると。あなたに託された役割は、他の乗客の皆さまと一緒にいることではありませんか? あのご老人も、先ほどの会場へと戻られました。あなたも急がれたほうがいい」
はい、とネアは顔を上下させ、それからふとクレイに向き直って、
「閃光弾というのは、イベント担当の方でも扱えるものなんですか?」
「ええ、まあ。いざという場合に備えて研修を受けますので」
「船の機器に詳しいのも同様ですか?」
「ええ」
「船が墜落するまで一時間と断言できたのはなぜですか?」
クレイは短く咳払いを挟んでから、
「機関部の担当者がそうだと」
「それは変です。だって詳細は確認中だと。そもそもこの状況で、あなた以外の乗組員が対応している気配が見られないこと自体――」
唐突にクレイが手を伸べてきた。驚いて身を固くしていると、肩を掴まれ、力任せに引き寄せられた。
今さらのように恐怖が込み上げ、胸の内を満たしたが、もはやどうにもならなかった。悲鳴を上げる間もなく、口を掌で塞がれていた。背後から腕が絡みついてきて、体を締め上げる。凄まじい怪力だった。骨がへし折れるのではないかと思った。
必至で手足をばたつかせる。せめてもの抵抗を、相手はまるで意に介さなかった。ますます力を込め、拘束を強める。
全身が軋み、やがて酸欠で視界が白みはじめた。咽の奥から洩れ出す自分の掠れた呻き声だけが、やけにやかましく聞こえていた――。
「言ったでしょう、この船とて危険に変わりないと。余計なことに気付かなければ、もう少し楽な道があったものを」
声はどこか遠くから、壁を隔てたように曖昧に聞こえた。混濁した意識が、不思議と凪いでいく。濃密な霧に包まれるような感覚。
ゆるゆると体から力が抜けた。床に突っ伏し、その模様をぼんやりと見つめながら、ネアは虚ろな闇の奥へと落ちていった。
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