9
「イルマさん、こんなのと――」
と発した言葉が終わり切らないうちに、近くを泳いでいた一匹が突如として方向を転換した。牙を剥き出したまま、勢い任せに突っ込んでくる。激しい振動と轟音。窓の破損こそ無かったが、身を翻して離れていくまで、まるで生きた心地がしなかった。
「やはり妙だ」と老人だけが冷静である。「おふたりはなにか気付かれましたか?」
「それどころじゃなかった。心臓が停まるかと思った」
ペトラの応答に老人は笑い、躊躇いなく窓際に移動しながら、
「正直ですな。空棲肉食種の観察に不慣れな者は、誰しもそんなものです。むろん私とて、恐怖心はあります。しかし長年の経験から、多少は鈍感になるようです」
髭を撫でつつ、平然と外の光景を眺め渡す。
「あなた方のお師匠は、雲鮫の群れを船から引き離すべく挑発を繰り返している。確実に逃げおおせられるよう計算尽くなのでしょうが、実に巧妙な飛び方です。彼らにとっては極上の餌に見えているはず」
「効率を考えるなら、なかなか壊せない船を襲いつづけるより、群れ全体でイルマさんを狙ったほうがいい、ということですか。でも追いかけているのは数匹だけ」
「ええ。私が妙だと言うのはそれです。さっきの雲鮫の歯や頭部の先端には、細かい傷が無数にありました。船への攻撃を繰り返してきた証拠です――魅力的な餌に違いない、あなた方のお師匠には見向きもせずに」
「そうまでして雲鮫たちがこの船に執着する――執着しなければならない理由が、なにか」
思い当たりますか、と問おうとしたとき、またしても雲鮫の突進があった。窓の向こうがまるで見えなくなるほどに密集している。次々に体をぶつけ、牙を立て、船を揺さぶる。今度の攻撃は長い。いつ止むとも知れない。
がたん、とこれまでとは違った衝撃が走った。そう大きいわけでも、目に見える被害が生じたでもなかったが、ネアは思わず身を竦ませた。壁や天井を眺め渡す。船は変わらない速度で飛びつづけている。
理由は分からない。しかし胸の内に黒々とした不安が込み上げていた。奇妙にも、雲鮫たちが申し合わせたように退いていく。
静けさが戻ったと思われた直後、激しいノックの音が響いた。老人が立ち上がる。扉が開くと同時に飛び込んできたのは、パーティー会場に残してきた例の司会役である。化粧も服装もそのままなので、間違えようがない。
「どうしたの? みんなは?」
ぱたぱたと駆け寄ったペトラに、彼は早口で、
「乗客はみな無事で、引き続き待機するよう伝えてあります。お伝えしなければならないことが。残念ながら悪い知らせです。つい先ほど、本船の浮力調整器にトラブルが発生した模様です。詳細は確認中ですが、おそらくは気嚢内部の浮遊用気体と脚荷の量を増減させるための放出弁が――」
「端的に。船はどうなってるの?」
「バルブが破損してガスが洩れつづけている状態です。船の重量を支えきれなくなれば、墜落は免れません」
「嘘」とネアは息を呑み、「どのくらい持ちますか」
「船体の安定を維持して飛行できるのは――あと一時間が限度でしょう。さらにもうひとつ悪いことに、雲鮫の群れは現在、本船の降着装置に狙いを定めています。装置が破壊されれば、安全な着陸はもう不可能です」
「そんな」ペトラが司会役に詰め寄る。「安心で快適な空の旅だって言ったじゃん」
「それはあくまで口上と申しますか――もちろん相応の安全対策は講じておりましたが、今回は想定外の事態の連続でして」
「そんなの通用する?」
「事実ですので、そうとしか申し上げられません。ともかくも一刻も早く鮫どもを追い払い、着陸態勢に入らなければ」
なおも言葉を続けようとしたペトラの肩を掴み、落ち着いて、と告げてから、
「職務的に答えてください。まずはあなたのお名前と、この船における立場を教えてください。それから、なにか手段があるかどうかを」
司会役はクレイと名乗った。本業はコメディアンで、接客のために臨時に雇われて乗船したのだという。
「倉庫に威嚇用の閃光弾が積んであります。群れの中央で破裂させて気を散らせば――」
不可能だ、と老人が遮った。眉間に深い皺を寄せたまま場の全員を見回し、
「その程度の浅知恵は、彼らには通用しない。船の脆弱性を知らしめるようなものだ。生半可な攻撃では逆効果にしかならない」
「かなりの光量と音ですよ。怯ませられるはずです。散り散りになって逃げていくかも」
とクレイが食ってかかったが、老人は取り合わず、
「虚仮脅しだ。すぐに見透かされ、猛反撃を食らうよ。打って出るならば相応の装備が必要だ。大変な危険が伴うが――これを使うしかない」
言いながら壁際の机へと取って返し、鞄を抱えて戻ってきた。中から液体で満たされた小瓶を出し、持ち上げてみせる。
「空棲生物用に特化した麻酔薬だ。専用の短筒を使って、直接、雲鮫に打ち込む。きわめて高い即効性があるから、数分で活動停止に追い込める」
「素晴らしい。その作戦にしましょう」
喜色満面の表情で壜に手を伸べたクレイを、「待て」と老人は撥ねつけて、
「ここにあるのは、ごく微量だ。ぎりぎりまで近づいて、すべての雲鮫の腹に正確に命中させねばならない。それだけの技量を持つ者にでなければ、この薬は預けられない」
沈黙が下りた。しばらくののち、
「私が」
ペトラが挙手していた。その面持ちは真剣だったが、いっぽうで老人の表情は硬い。
「しかし――」
「私がトールシップと一緒に、それをイルマさんに届けます」
「届ける?」
壜を摘まんだまま繰り返す。眼鏡の奥の瞳が光を帯びはじめた。
「はい。銃を使える状態にさえしてもらえれば、私が船外に出てイルマさんに渡します。呼び戻すより、トールシップで飛んでいったほうが早いでしょ。私にできることとしては、それが最善だって思います。あとはイルマさんを信じる」
言葉を聞き終えるなり、はは、と老人は短く笑った。目を細め、
「あなた自身がやると言い出すのではないかと思いました」
「やっつけたいよ、私の手でやっつけられるなら」
ペトラは悔しげに言い、それから続けて、
「みんなを助けて、飛空船を守って、ネアに格好いいところを見せたい。でも今やるべきことは、それじゃない。私には私の役目があるんだって分かってます。大事な役目です」
「ペトラ――」
ネアが歩み寄ると、彼女は微笑を寄越した。それから視線を老人に向け、
「お爺さん。薬を私に」
老人が頷いた。壜を光に透かすようにして振りながら、
「すぐに準備します」
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます