8

 ペトラと視線を交わし、頷き合った。乗客に向け、呼びかける。

「皆さん。いま私たちの師であり友であるイルマが、雲鮫を遠ざけるべく船外に出ました。私たちを信じて、脱出の準備を整えてください。大丈夫、なにもかも上手くいきます。司会進行をなさっていた方はどこですか?」

 ここです、と相変わらず床に伏せったままで返答があった。余程のこと怯えている。

「乗客は全員、パーティーに参加していましたか?」

「間違いなく、全員。名簿もあります。接客担当の乗組員も、みなこの部屋です。残りは船の運航に関わる最小限の担当者のみです」

「ありがとうございます。では、どうか周りと確認し合ってください。誰か欠けている――」

 はっとした。あの老人。資料を取りに戻ったきりだ。部屋を探すべきか。しかし名前さえ聞かないままだった――。

「そっか、さっきの空魚に詳しいお爺さんだね」とペトラ。「任せて。トールシップ! 匂いを追いかけて。あのお爺さんのところまで、私たちを案内するの」

 指示を受けたトールシップが、威勢よく胸鰭を羽ばたかせる。くるくると数度、会場内を旋回したかと思うと、一直線に廊下へと泳ぎ出した。ふたりで後を追う。

「皆さん」部屋を出る間際、ペトラが振り返る。「固まって、万一の衝撃に備えていて。テーブルや椅子に隠れて身を守るの。私たち、すぐ戻ります」

 客室の並ぶ階層に至った。トールシップはときおり速度を緩め、壁や床に鼻先を近づけては匂いを確かめている。やがてある一部屋の前で静止し、鰭を大きく広げて合図を寄越した。

 扉を叩く。すぐに内側から応答があった。

「助けてください。開かないんです。さっきの衝撃で、鍵が破損したらしい」

 確かにあの老人の声である。ビンゴ、とペトラが微笑し、

「ぶち破ります。下がってて」

 トールシップが扉に頭部を寄せ、ノブや鍵穴の周辺を目にも止まらぬ勢いでつつきはじめた。ややあって後退し、体当たりを見舞う。扉が吹き飛び、広々とした客室の光景が覗いた。お爺さん、お爺さん、と呼びながら踏み込んだ。

「あなたたちは――」

 老人は茫然と、部屋の隅に佇んでいた。混乱するのも無理はない。

「トールシップは紹介しましたね。私はペトラ、こっちは親友のネア。一緒に来てください」

「いったい何事ですか、あの大揺れは」

「船が雲鮫に襲われてるの。とにかく来て」

「雲鮫――」

 と老人は眉を顰めた。イルマが浮かべていたのとそっくりの表情である。

「みんなパーティー会場に集まってます。お爺さんもそこで待機して。大丈夫、きっと振り切れるから」

 ペトラが手を引いて連れ出そうとしたが、老人は動かなかった。抵抗したというより、考え事に夢中で対応しきれなかったように見えた。ちょっと待って、とペトラに告げる。

「なにか考えがあるんじゃないですか。空魚だけでなく、雲鮫の知識もあるのでは? もしなにか知っているなら、私たちに教えてください」

「確かに」と老人は慎重につぶやき、「私は多少、雲鮫のことを知っています。先程の揺れが本当に彼らの仕業で、しかもまだ船への攻撃を続けているのだとしたら――これは信じがたい事態だ」

 重々しい口振りでそう語り、寝台に腰掛ける。ネアもその隣に座った。ペトラはやや迷っている様子だったが、けっきょく話を聞くことに決めたらしく、すとんと腰を下ろす。

 老人は学生相手に講義をするような調子で、

「雲鮫は非常に知能の高い生き物で、効率的な狩りをすることが知られています。逆に言えば餌にならないものには見向きもしない、体力の浪費を嫌う、ということ。すなわち飛空船への攻撃など、本来するはずがないのです。そもそもこのあたりは、彼らの住む領域ではありません。迷い込んできた? ならばますます、飛空船に近づく理由は無い」

「あんまり想像したくないんだけど、人間を餌にする気なんじゃ? いっぱい乗ってるんだから、船を襲うのは効率的だと思いますけど」

 ペトラの意見に、老人はあっさりとかぶりを振る。

「とても釣り合いません。支払うコストに対して得られる成果が乏しい、あるいは成功の可能性が著しく低い狩りを、彼らは好みません。あえて体質に合わない空域までやってきて、巨大で堅牢な船を攻撃するという判断を取ることは、ほぼ無いでしょう。大規模な狩りを計画するなら、彼らが襲うべき相手はもっと別にいます」

「でも実際、雲鮫が襲ってきてるんです。私たちの師匠が、いま必死で遠ざけようとしてるの」

「師匠というのは――ネイトミラージュのあの方ですな」

「はい。名前はイルマ、空魚はブルーストーム。〈黄金の雨〉で最高の空魚と、乗り手です」

 視線を寄越した老人に、ネアは言葉を噛みしめながら告げた。そう、最高の組み合わせだ。この空の何者も、彼女たちには触れられないはずだ――。

「とにかく見て。船がどうなってて、イルマさんがなにをしてるのか。話はそれから」

 ペトラが乱れた調子で捲し立てた。立ち上がり、一息にカーテンを引き開ける。射し入った陽光に、老人が目を細めた。

 最上級の個室からの眺めにふさわしく、視界を遮るものはなにもない。イルマとブルーストームの位置を示す、ひときわ蒼く鮮烈な輝きも、すぐに見出せた。

 颯爽たる飛行だった。迷いも、乱れもない。ネアの知る、普段のイルマとブルーストームの姿だ。後方から凄まじい速度で迫る影を物ともせず、逆に翻弄している。

「見事だ」

 と老人が唸る。むろん驚きはあったのだろうが、専門家めいた好奇心を露わにしたようにも聞こえた。

「さすがイルマさん。一匹も追いつけない」

「確かに、あの方は素晴らしい。しかし、喜ぶには些か早いかもしれません」

 老人の頭部が動く。その視線の先――船の近くに群がった不吉な塊が、ネアの目にも飛び込んできた。

「あちらが群れの本隊です。挙動をよく見てください」

 数は――見たところ十前後。身を隠しているものもいるに違いないから、実際はもっと多いだろう。

 覗き込んだ。これまで不明瞭だった雲鮫の全体像を、ようやっと仔細に観察できた。

 背は青みがかった濃い灰色。艶やかに光を反射するふうではなく、ざらついた鑢のような質感である。特徴的な背鰭はほぼ正確な三角形で、胴体のほぼ中央から一本、ずっと小さなものが尾の付近からもう一本、それぞれ伸びていた。

 膨らんだ腹部は白い。しかし透明度は皆無で、上から無理やり塗り込めたような色だった。背との境界付近はところどころに灰色が混じって、まだら模様になっている。

 ゆらゆらと一匹が接近してきた。ペトラの直感したとおり、大きさはエデンソングとほぼ同等か、やや小振りなくらいである。動きがどうにも非生物的で、甦った死体を目の当たりにしているような薄気味悪さを覚えた。

 その顔を間近にし、きゃ、と悲鳴をあげた。反射的にペトラの手を握る。

 ふたつの眼球は昏く、あたかも硝子玉のようだった。意思の輝きをまるで宿さず、落ち窪んだ空洞にも見えた。まさしく死者、あるいは髑髏の目だった。

 頭部の、想像よりずいぶん下の位置に、巨大な口があった。閉じているぶんには大きな切込みとしか見えないが、ひとたび開かれると印象は激変する。ずらりと生え揃った牙に縁取られた、肉色の口腔。そこだけが際立って生々しく、ぱくり、ぱくりと蠢くたび、背筋に冷たいものが走った。

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