7
「どこ?」
「十時から十一時。あれも飛空船かな?」
目を凝らして見つめれば、確かにおぼろげな影があった。同じくらいの速度で併走している。しかし飛空船どうしが、これほど接近するものだろうか。
イルマも訝しげに近づいてきた。一瞥するや、低い声で、
「いや。あれは生き物だよ。この船ほどじゃないが――かなり大きい」
影が濃くなったかと思うや、雲が割れた。黒光りする背が一瞬だけ見え、すぐさま別の雲に潜り込んで消えた。三角形の突起だけが突き出し、滑るように動きつづけている。
雲鮫だ、とどこからか声があがった。乗客たちがざわめきながら窓辺に寄ってくる。珍事を面白がっている風情だ。
「エデンソングってあのくらいじゃない? もう一回出てこないかな」
「うん、そうかも。でも私、あれには乗りたくないな」
言い合っているネアとペトラをよそに、イルマだけが窓から一歩離れた状態で腕組みしていた。眉を顰めている。
「雲鮫――」
「見たことあるの? あれ、どういう生き物? トールシップより速く飛ぶの?」
「見るのは初めてだし、知識もない。でもこれだけの規模の船を前にして、怯えてる様子がまったく無いのは変だ。どんな生き物であれ、相応の警戒心は示すはず。むしろ狙ったタイミングで、向こうから姿を見せたみたいで――」
船に衝撃が走った。突然の強風に煽られたでも、嵐に見舞われたでもない。なんらかの重量物が、勢い任せに横っ腹に突っ込んできたような揺れ方だった。船体が傾ぎ、グラスが、皿が、テーブルまでもが倒れる。いっさいが床にぶちまけられ、けたたましく音を発する。
乗客たちはみな、悲鳴とともにしゃがみ込んでいた。姿勢を保っているのは、場でもっとも若い三人――ネア、ペトラ、イルマのみだった。
黒々とした影が、ゆらりと船内に下りる。三人を順番に舐め、消えていく。
直後、第二の衝撃が来た。船の傾きが増す。耐え兼ねた何人かが床を滑っていき、壁にぶつかって止まった。怪我人は――今のところ無い。
「やっぱり雲鮫だ。船を襲ってるんだ」
イルマが部屋を振り返り、
「奴らを振り切らないと。もっと速度を上げて」
「本船はあくまで遊覧船でして、速度は、それほど、その、このような事態は、私どもも想定外なのです」
床に伏せったままの司会役が、しどろもどろに応じる。くそ、とイルマが発し、それから声を張って、
「デッキに上がるには? 階段で最上階?」
「さようでございます。しかしこの状態では――」
「こんな状態だからだ。私がおとりになって、あいつらを船から引き離す。そのあいだに距離を稼いで、着陸の方法を探して。ブルーストーム!」
舞い降りてきた空魚を従えたイルマが、ネアとペトラに顔を向ける。
「おまえたちは乗客を頼む。いいね」
「待って、イルマさん。私とトールシップも一緒に行く」
駄目だ、とすぐさま彼女はかぶりを振った。
「この船に、人を乗せてまともに飛べる空魚は二匹しか乗ってない。乗客を救うのに必要になるかもしれない。意味が分かるね?」
「――分かる」
ペトラが頷く。イルマは少しだけ表情を緩めて、
「置いていくんじゃない。おまえたちを信頼して、この船のことを任せるんだ。絶対に誰も死なせないために」
長くしなやかな腕が、ネアとペトラの小さな頭を掻き抱く。力強く、しかし優しく。
「ペトラ。おまえとトールシップの飛行には、もうなにも言うことはない。立派な空魚使いだ。ネア。おまえは私の知る誰よりも思いやり深くて聡い。なにが起きても、最後まで考えることを止めるんじゃない。耳を傾けて、声を聞くんだ」
感触が遠ざかった。イルマが両腕を後頭部に回し、髪留めを外す。銀の長髪を靡かせて、ブルーストームに飛び乗る。
「さて、作戦開始だ。臆することはなにもない。〈黄金の雨〉の女はどんな逆風だって物ともしないって、証明してやろうじゃないか」
身を翻し、目覚ましい速度で部屋を飛び出していく。巻き起こった風が、ネアたちの前髪を揺らした。ふたりで窓辺に取りつく。蒼い輝きが、流星のように尾を曳きながら空を駆けていくのが目に入った――。
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