第二部 〈空都〉

1

 列車が速度を緩めはじめたとき、窓の外は闇に包まれていた。到着は朝と聞かされていたので、硝子に映り込んだ自身の影に困惑した。覚醒したばかりのネアは、自身の時間の感覚が狂ったのかと思いかけた。

「おはよう、ネア。まもなく到着するよ。ペトラを起こしてやって」

 向かいの席からイルマが言う。ネアは目を擦り、こちらに寄りかかって寝息を立てているペトラを軽く揺さぶった。

「あれ? まだ夜なの」

 瞼を開いたペトラが、ゆっくりと体を伸ばしながら問いかけてくる。乗車の直後こそ窓に張り付いてはしゃいでいたが、景色が代わり映えしなくなると飽きたらしく、一番に眠り込んでしまった。それからはずっと熟睡していたようで、寝起きにもかかわらず顔立ちは溌溂としている。

「もう朝みたいだよ。じきに到着するって」

「暗いじゃん」

「駅が複数の階層に分かれてるんだ。この車両は地下に停まるんだよ」

 とイルマが解説する。線路というのは常に地上に敷かれているわけではない――ネアもかつて、母から聞いたことがあった。しかし実際に闇の中を進む列車に揺られるのは、想像以上に奇妙な体験だった。イルマに眠るよう勧められてからも落ち着かず、初めの数時間は短い微睡みと覚醒を繰り返してばかりだった。

「私たち、〈空都〉の真下にいるの?」とペトラ。

「真下というか、地下の空間も〈空都〉の一部なんだよ。島の規模が〈黄金の雨〉とはまったく違うんだ。真ん中をくり抜いて、場所を活用できる。私たちの感覚じゃ、ちょっと思い付かないだろ」

 漠然とした知識しか持ち合わせないネアとは違い、イルマはよく下調べをしていた。島から島へ橋を渡って〈空都〉に至る経路を探し出し、列車の手配をしてくれたのも彼女だ。ネアとペトラはただ、後を着いてきたのみである。

「下りたらすぐ、ブルーストームとトールシップを引き取ってくるよ。ネアは待合で少し待ってて」

 空魚たちは客車とはまた別の車両で運んできた。いかに速さと体力を自慢とする二匹であれ、〈黄金の雨〉からここまで飛ぶのは困難だ。

「分かった。エデンソングも連れて来たかったな。鯨が乗れるような乗り物も、いつかできるのかな」

「いつかは、きっと」とイルマは笑み、「ペトラは私とおいで。あいつらにとっても初めての経験だからね、機嫌を損ねてないといいけど」

 ゆっくりと列車が停まった。煙を吐き出すような音とともに開いた扉から一歩降りてみれば、巨大なトンネルの内側といった風情の場所だった。あらゆる音がわんわんと反響するのが分かる。等間隔にともされた灯りの下の光景は、べつだん華やかなものではなかったが、ここがもう〈空都〉なのだと思うと胸が昂揚した。

「着いたんだね」

「凄いよ、ネア。本当に着いた」

「外に出たらもっと驚くよ。さあ、早くあいつらを迎えに行ってやろう」

 手続きに向かうふたりを見送ってから、ネアはきょろきょろとあたりを観察しつつ反対方向に進んだ。忙しなく行き交う人々や、傍らに付き従う空魚の隙間を抜けていく。目指す待合は、ひとつ上の階にあった。

 階段を上りながら目を瞠った。ここが駅の、それもたったひとつの階層なのか――。

 まるで遊戯施設だ。驚くほどの喧騒と、目を射るような目映さ。ここで揉みくちゃにされたのでは堪らないと思ったが、待合のある一帯だけは雰囲気が穏やかだった。ほっと胸を撫で下ろした。

 近くの店で三人ぶんの飲み物を買い、場所を見つけて腰を下ろす。四方に装飾の施された柱が配され、物珍しい植物の飾られたその空間だけでも、〈黄金の雨〉唯一の劇場と同じくらいの広さがあった。

 なにもかもが物珍しい。なかでも目を引いたのは、頭上から柔らかな光をもたらしているランプだった。名のある職人の手によるものだろう、実に細やかな作りだ。ブルーストームに似た空魚が球体に絡みついているという意匠である。

「お嬢さん、空魚に興味がおありですか?」

 傍らから声をかけられ、ネアははたと視線を下ろした。〈空都〉の住人らしく身なりの整った、涼しげな目の青年である。年の頃は、イルマよりも少し上くらいだろう。座った姿勢でも、相当に背の高い人物であることが分かった。

「はい。私の知っている子に似ていたので」

「なるほど。鱗の色は透明度の高い蒼?」

 ネアは驚き交じりに、

「そのとおりです」

「ではネイトミラージュ種だ。この空においても、非常に希少な生き物です。失礼ですが、出身はどちら?」

「〈黄金の雨〉という小さな街です。ここに来るのも一日がかりで――田舎なのでご存知でないかもしれませんが。私の街には、優れた空魚使いがたくさんいるんです」

「そのようだ。ネイトミラージュ種を乗りこなせるほどの使い手は、〈空都〉においても数えるほどでしょう。こちらには観光で?」

「観光もします。飛空船を見るんです。でも私のいちばんの目的は、研究所の先生に会うことです。ロイネ博士に、ぜひとも伺いたいことがあって」

 青年は幽かに眉を吊り上げた。意外な返答だったのだろう。

「そうですか、ロイネ博士とは。しかし、あくまで僕が知る限りですが、博士はとても多忙です。いきなり訪問しても、門前払いが落ちでしょう。面会には然るべき手順が必要だ」

「それは――私でも分かります。でも、きっと興味を持っていただけるはずなんです。竪琴鯨のことなんです」

「竪琴鯨?」途端に表情が変わった。「あえてロイネ博士にと言うからには空棲大型種の話だろうとは思いましたが、そうか、鯨か」

 そうなんです、とネアは強調した。青年は考え込むように視線を彷徨わせていたが、ややあって、

「実は僕も、空棲生物の研究をしていましてね。もちろん博士ほどの研究者ではありませんが」

 ネアは目を見開き、

「本当ですか」

「ええ。空棲肉食種を広く扱いますが、あえて専門を挙げるなら雲鮫の生態です」

 ようやく合点がいった。なるほど、空魚に関する知識もあるはずだ。

 青年はエリクと名乗った。ロイネ博士と同じ研究所に勤めており、ときおり顔を合わせるという。

「遠くから来られたとのことですし、ぜひとも会っていただきたいですね。いつまで滞在される予定ですか?」

 大雑把な予定を告げると、エリクは手帳を取り出して書き留めながら、

「機会を見つけて、僕から話しておきましょう。ではネアさん、僕はこのあたりで失礼します。お会いできてよかった。あなたの〈空都〉での旅が実りあるものになりますよう」

「ありがとうございます、エリクさん」

 ネアは深く頭を下げ、若き研究者を見送った。イルマたちが戻ってきたのは、それから一時間ほど経過してからだった。

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