10

 無事に空の旅を終えて空き地に着陸した途端、どっと空魚使いたちが押し寄せてきた。つい先刻まで正確無比な編隊飛行を披露していた集団とは思えない興奮ぶりで、ネアを取り囲む。すぐに身動きが取れなくなってしまい、その場に立ち竦んだ。

 口々に賞賛されたり、肩を叩かれたり、質問を浴びせられたり、人生で初めての経験にネアはすっかり困惑していた。見兼ねたらしいイルマが連れ出してくれなければ、いつまでもそのままだったに違いない。

 帰り道、イルマは穏やかに、

「悪いね、騒々しい連中で」

「ううん。でも少し驚いた。空魚使いの人たちは、なんだろう、もっと――」

「厳格だと思った? まさか。いくら制服で武装してても、一皮剥いたら普通の人間なんだよ。誰もがそう。ふざけ合うし、冗談も言う。珍しいもの好きだし、はしゃぐのも大好き。色恋沙汰で悩んだりもする。上手く解決できることもあるし、できないこともある。そういう当たり前の生き物の集まりなんだ」

「そう――なんだね」

「もちろん。だからさ、必要以上に気負わなくていい。私も隊長になったばかりの頃は緊張したし、失敗もした。でもみんなが助けてくれた。自分で自分が情けなかった時期もあるけど、今はもう、これでいいんだと思ってるよ。完璧な人間なんて、誰ひとりいないんだから」

「ネア、イルマさん」

 と後方からペトラの声がした。振り返れば、そのさらに後ろにはルーニーの姿もある。駆けてきたふたりと合流し、四人での帰路と相成った。

「驚いたよ。あんな隠し玉があったなんてね。三人で秘密の訓練を重ねたのかな?」普段は超然とした印象のルーニーが、今は溢れ出す好奇心を隠そうともしない。「鯨を手懐けるなんて、イルマだってやったことないでしょう? どうやって教えたの?」

「私が教えたんじゃない。ネアの功績だよ。だいいち歌声で指示を出すなんて方法、私に思い付けるわけがない」

 あはは、とルーニーは笑い、

「それもそうか。ネアはどうしてそんなに鯨に詳しいの? お母さんに習った?」

「確かに竪琴鯨の話をしてくれたことはあったけど――詳しいわけじゃないよ。私もまだ、分からないことだらけで」

 言いながら、ネアはイルマの顔を見上げた。漠然と考えてきたことを、きちんと話すべきときだという気がした。

「私、もっとエデンソングのことを、竪琴鯨のことを知りたい。ちゃんと学びたいの。なにかいい方法はないかな」

 そうだな、とイルマはつぶやき、顎に指先を添えた。ややあって微笑を寄越しながら、

「〈空都〉に行ってみるのはどうだろう。研究所を訪ねて、専門家に話を聞く。エデンソングは、あれだけ大きいとさすがに連れていけないから、まずは私たちだけで」

「〈空都〉ってことは――ロイネ博士のところに?」

 イルマの部屋で見た本に、その名前があったのを思い出していた。空棲大型種研究の第一人者だ。

「そのとおり。どうせなら、この空でいちばん詳しい人がいいだろ」

「私も行きたい」とペトラが威勢よく発する。「いいでしょ、ネア」

「いいけど――でも私たちがいきなりロイネ博士だなんて。会ってくれるかな」

「決まってる。なんたって伝説の竪琴鯨なんだから。話を聞いたらすぐ、ぜひ実物を見に行きたいって向こうから言いだすよ。ね、イルマさん」

「私もそう思う。相手は研究者だ。きっと興味を持ってくれるよ」

 頷きを返しながら、ネアは〈空都〉の光景を想像した。立ち並ぶ高層建築物、整備の行き届いた通路、広大な飛空船の港――しかしいずれも、今はまだ質量の伴わない幻想でしかなかった。十二歳の少女にとり、〈空都〉はあまりにも遠い。

 ためらいを見て取ったらしく、イルマはネアの肩に手を置いた。

「ふたりだけで不安なら、私も同行する。必要ないと言われても、こっそり同行する」

「必要ないなんて、まさか。嬉しいよ。でも――わざわざ私たちのために?」

 いや、と彼女はすぐさまかぶりを振った。

「私も鯨のことは気になるけど、それだけじゃない。飛空船だよ」語るイルマの声が、より力強い熱を帯びた。「私も一度は行ってみたかった。ずっと考えてたんだ。〈空都〉で飛空船をもっと間近で見たい。体験したい。迷ってたんだけど――この機を逃す手はない」

「じゃあ決まりだ」とペトラ。「本当に〈空都〉かあ。生きてるあいだに行けるなんて、思ってもみなかった」

 空を仰ぎ見ながら、声を弾ませてはしゃいでいる。飛び跳ねんばかりの勢いだ。

「〈空都〉ね、いいじゃない」とルーニーも穏やかに後押しした。「名案だよ」

 イルマは短く息を吐いた。少し間を置いてから、今度は慎重な声音で、

「ルーニー、隊長として訊く。私は一時的に任務を離れることになる。それでも賛成してくれる?」

「副長として、友として答える。とうぜん賛成。隊のことは任せて。みんなでどうにかやっておくから。まとめて休暇を取って、楽しんできたらいいよ」

「苦労をかけるね」

 微笑交じりに告げたイルマに、ルーニーは言い聞かせるように、

「ありがとう、でしょ。いつか、きっとそう遠くない未来、あなたが立派な飛空船乗りになったら、私が隊長を継ぐことになる。みんな知ってるんだよ、あなたの夢のこと。だから心配しないで行ってきて」

「ありがとう」

 ルーニーは頷き、ゆっくりとイルマに歩み寄った。肩を掴み、顔を近づけたので、なにか秘密の伝言をするかのように見えた。イルマもそのつもりだったかもしれない。実際、ことが起きる瞬間まで、彼女は神妙な表情を保ったままだったのである。

「旅のお守り」

 囁くと、ルーニーは一瞬だけ、イルマの頬に唇を押し当てた。ネアも、ペトラも、当のイルマでさえも、驚愕に目を見開いたのみだった――。

 ルーニーがくるりと身を翻した。いまだ茫然としている三人を残し、駆け足で離れていく。

 石畳の道の対岸へと渡り切ってからようやく、こちらを振り返った。普段と変わらない、神秘的な笑みを浮かべていた。

「心を決めたんだから、すぐ準備にかかって。ネア、ペトラ、イルマのことお願いね。頼りになりそうに見えても、その人、ぜんぜん完璧じゃないんだから」

 ルーニーの後ろ姿が失せてしまってから、ネアは躊躇いがちにイルマの様子を伺った。まだ動揺が収まりきらない。先の出来事は幻だったのではないかと思った。

 ペトラも同様にしていた。こちらはより興味津々といった顔だった。

「あの馬鹿」頬に掌を添えたまま、イルマが独り言つ。ふたりの視線に気付いたのか、途端に厳格な表情を作った。「明日の朝に発つ。おまえたちも早く帰って、仕度をしたらすぐに寝ること。分かってると思うけど、遅刻は厳禁」

 はい、と元気よくペトラが返事をし、ネアの掌を掴んだ。そのまま走り出す。

「凄い、凄い、凄いよ、ネア。信じられる?」

 ぐいぐいと手を引っ張られつづけている。息を弾ませながら、ネアは咄嗟に、

「信じられない」

 なにが信じられないのか、自分でもまだ分からなかった。この一日であまりに多くのことが起き、すべてが予想を軽々と飛び越えていった。ただひとつ確かなのは、今にも胸が爆発しそうになっているということだけだ。

 傾きかけた陽が、遠くに見える街の屋根を鮮やかに染め上げていた。ペトラと隣り合い、足を止めることなく走りつづけながら、ネアは脳裡に旋律を甦らせた。

 この歌は、どこまでだって届く。また新しい冒険へと、私を導いてくれる。

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