9
丘の斜面を登りきったところに、空魚に跨った一団が隊列を作っている。
大半が若い女だ。全員が制服を着こんでいるが、しかつめらしい感じではない。むしろ雰囲気は洒脱で、それぞれが着こなしに拘りを抱いているように見えた。
「やっぱり格好いいなあ。私、変じゃないかな」
と傍らからペトラが囁きかけてくる。熟考の末に選んだのだろう、今日の彼女は淡色のショートドレス姿だった。あどけなさを残した快活そうな風貌に、色合いがよく似合っている。
「ぜんぜん。可愛いと思うよ」
「ほんと?」
「本当だってば。そういえば、イルマさんに借りた制服ってまだ持ってるの?」
「ネアに見せてすぐ返したよ。こういう場で着たら、さすがに拙いもん」
頷き、ネアは一団に視線を向けた。こちらは正式な空魚使い、それもイルマが選抜した精鋭たちだ。
今はまだ騒がしい。気心の知れた間柄らしく、めいめいに言葉を交わしたり、笑い合ったりしている。肩の力は抜けているにしろ、完全に緊張を絶やしているわけでもない。ここにいる誰もが、合図があればすぐさま飛び立てる自信を有していると思しい。
「みんな注目。そろそろ始めるよ」
先頭からイルマが指示を出す。途端に場の空気が変容するのが分かった。
「今日は私たちの友、ネアとペトラが参加する。全員、適切な力添えをお願いね。なるべくみんなが近くに行って、なにが起きるかよく観察して」
「質問、いいかな」
と声があがった。イルマと同期のルーニーが一歩前へと歩み出す。白い肌とまっすぐな黒い髪、エメラルド色の瞳の持ち主で、見る者にどこか神秘的な印象を与える。空魚の使役にかけてはイルマに次ぐ実力者であり、この隊の副長を務めている。
「ペトラの空魚はよく知ってる。速さ自慢のトールシップ――あなたが乗ってたときには、何度もぶっちぎられたっけ。だけどネアのは? なにに乗るのかぐらい、事前に教えてくれてもいいんじゃない?」
「今から紹介させるよ。厳密に言うと空魚ではないんだけど、まあ見てもらったほうが早いかな。みんなが一方ならぬ度胸の持ち主だとはいっても、今回だけはきっと驚くはず」
ざわめきが起きる。いっせいに視線が集中するのを感じて、ネアは身を強張らせた。
「じゃあネア。みんなに見せてやって」
はい、と応じた声は、緊張のあまり裏返った。一気に頬が紅潮する。
「硬くならないの」言いながら、ルーニーがネアに悪戯っぽい笑みを寄越した。「ごめんね、イルマが勿体ぶって。大丈夫だよ、もっと気を楽にして。空魚使いだなんていっても、けっきょくは空に憑かれただけの人間の集まりなんだから」
頷き、咳払いした。歌に備えて声を調律する。頑張って、とペトラに肩を叩かれた。
歌いはじめた。合図代わりの短い一音。続けて音色を少しずつ変化させながら、長く引き伸ばしていく。エデンソングお気に入りの一節へと繋げ、繰り返した。
来てくれるかな――と不安が胸を掠めた。そう離れていないとはいえ普段とは異なる場所で、しかも大勢が待ち構えているのだ。怯えてしまわないだろうか。エデンソングが存外に怖がりであることを、ネアはこの数日で学んでいた。
「――あれ?」
最初に反応を示したのはイルマの空魚だった。頭部を飾るヴェールのような鰭が広がり、ひらひらと靡きはじめる。ほっそりと伸びた首が差し上げられると、鰭が陽光を集めて虹色の輝きを帯びた。
「イルマ、〈青の嵐〉がなにか気にしてるみたい」
「どうしたんだろ」
空魚使いの女たちが、あちこち見回しながら騒ぎ出した。しかし主たるイルマは答えず、静かに微笑しているばかりだ。
ブルーストームはその名のとおり、透き通った水色の鱗に覆われた空魚である。長く大きな体は一見すると竜に似ているが、狂暴な印象はまったく無い。深い宝玉のような瞳、そして優雅に広がった扇状の尾鰭はどこか人魚を思わせ、向き合っていると静謐な心地になる。精緻な絵画や彫像に魂を吸い寄せられるのにも似た、不思議な感覚が生じる。
「ネアの歌が気に入ったのかな」とルーニー。「確かにいい声だよね」
「それもある。でもそれだけじゃない」
「また勿体ぶる。焦らすのが好きだよね、イルマは」
「いいから見てなよ、もうじきだから」
まさにその瞬間、音色が広がった――そう感じた。自分の声に新たな声が重なり、並走しはじめたのが分かった。ブルーストームはその並外れた鋭敏さで、遠い空からの応答をいち早く察知していたのだ。
一瞬の安堵、続いて凛々たる勇気が胸に満ちてきた。エデンソングはやはり応えてくれる。私を信じてくれている。ネアは胸元に手を当て、さらに声を高めた。
現れた。丘の向こうだ。
エデンソングが躍り上がり、反らせた体で巨大なアーチを描いた。横向きに飛んで、いったんは姿を消す。
いっせいに女たちの嬌声があがった。集中を絶やさないよう、腹部に力を込める。エデンソングとの繋がりを維持したまま、一心に歌いつづける。
ややあって泳ぎ上がってきた。今度は間近だ。エデンソングが甘えるように寄せてくる頭部を、掌で軽く撫でた。自然と頬がほころんだ。
ペトラとイルマが笑いかけてくれたのが分かった。ネアは胸を張った――張れた。空魚使いの一団に向き直り、精一杯の力強さで宣言する。
「この子は竪琴鯨のエデンソング。私の相棒」
するすると下がってきた背中に乗り、位置を定めて跨る。少しだけ上昇させて、飛行の準備態勢を取る。もうずいぶんと慣れてきた動作だ。
不思議な感覚だった。この街を代表する空魚使いたちが、自分を見てぽかんと唇を開いていたり、目を瞬かせていたり、あるいは隣どうしで驚きを共有していたりする。これまで想像さえできなかったことだ。
「ほら、みんな」
イルマがブルーストームの上から声を張る。
「訓練飛行を始めるよ。経路はいつもと同じ。今日の先導役はルーニー。私とペトラは、ネアを補助する。他のみんなはポイントごとに位置を入れ替えて、順番に観察しながら飛んで。分かってると思うけど、鯨を怖がらせないようにね」
「了解」
返答と同時に色とりどりの空魚たちが飛び上がり、瞬く間に空中で陣形を組んだ。行こう、とペトラに促され、ネアもその中に加わった――。
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