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 エデンソングがゆったりと空に泳ぎ出した。動作こそ穏やかだったが、それなりの速度は出ているらしく、景色は瞬く間に後方に流れ去っていく。この調子だとふだん苦労して登ってくる道も、軽々と飛び越してしまったことだろう。

 ネアたちが追いついてきたことを確認すると、ペトラとトールシップは身を翻した。着いてきて、と合図しながら、やや前方を飛びはじめる。

 夢中になって追従するうち、いつの間にか陸地は遠ざかって、空と雲だけの世界に導かれていた。太陽がずっと近くに感じられ、眩しい。熱いほどだ。エデンソングの背も鏡のように光を照り返して、鮮烈な煌めきを放っている。

 ネアは目を瞬かせた。下方の雲は降り積もったように分厚く、表面は波打って隆起している。ところどころに生じた大小の切れ間から覗く空はやや色が淡く、緑色に近い箇所もあった。

 遠くに視線をやれば、巨大な彫刻を思わせる入道雲が屹立していた。陽光に翳って、手前に濃い紫色の影を落としている。

 ペトラたちが方向を転換し、薄い雲が連なる一帯へと飛び込んだ。さすがの俊敏さで、くるくると小刻みに動いて雲を躱していく。急上昇、急下降、急旋回を織り交ぜた、曲芸じみた飛行だ。それでも難なくこなしているところを見ると、彼女たちにとってはお気に入りの遊びなのかもしれない。

 先を行く影を追うように告げた。エデンソングを鼓舞して突っ込ませる。

 急激に温度が下がった。鯨の巨大な鰭や下腹部が、次々と雲を切り裂いていく。ちぎれた欠片が粉雪のように舞って、ネアの頬を濡らした。

 勢いよく突き抜ける――白く柔らかな領域から、澄んだ蒼の領域へと。

 ペトラは先ほどより高度を下げて飛んでいた。その正面に、寄り集まったいくつかの影があった。目を凝らすと、緑から茶色にグラデーションしているのが確認できる。どうやら小さな陸地である。

 空のあちこちに、人の居住しえないきわめて小規模な島々が存在することは知っていた。多くは大変動の副産物――大陸がせり上がり、浮遊しはじめたときに生じた欠片だ。より後の時代、島の軌道が定まらずに衝突を繰り返した「大漂移紀」に誕生したものもあるが、数はずっと少ないらしい。

 こういったことを、ネアは母から習った。しかし実際に目にするのは初めてである。

 ペトラは小島のひとつに着陸し、こちらに手を振っていた。器用に飛び移るような真似はできないので、エデンソングをすぐ近くまで寄せる。伸べられたペトラの手を取り、やっとのことで小島へと降り立った。

「ここ、私とトールシップの秘密の場所なんだ。イルマさんだって知らないんだよ」

 手を握ったまま、ペトラが笑いかけてくる。周囲の雲は一見薄らとしているが、どうやらうまい具合に折り重なって島の姿を隠しているらしい。自分たち以外に訪れた者はいないはずだ、と彼女は宣言した。

「小さいけど、素敵な島じゃない? いつかネアを連れて来たかったの」

 頷いて、あたりを見回した。大きさはエデンソングの数倍程度、大人の鯨ならばこのくらいだろうか、といった程度である。周囲の島もほぼ同等。空中に安定した状態を保っている、おそらくは最小の陸地だ。

 端のほうは岩だが、中央に向かうにつれて緑が増えてくる。生えているのは、短く柔らかい草である。〈黄金の雨〉のものよりも色味がやや淡く、匂いも微妙に異なっている。

「凄いね。どうやって見つけたの?」

「本当にたまたまだよ。最初、私とトールシップにだけ見える幻なんじゃないかって思ったくらい。迷わずに辿り着けるようになったのは、わりと最近だよ。さっき雲をくぐってきたでしょう? あそこがね――抜けるのがちょっと難しいんだ」

 隣り合って小島の淵に腰掛けた。雲間に浮かんでいるエデンソングと、その周囲をじゃれるように飛び回っているトールシップを、ふたりで足をぶらつかせながら眺めた。

「トールシップ、大きな弟ができたような気分でいるのかも。すごく嬉しそう」

「仲良くなれそうでよかった。でもトールシップの真似をしはじめたらどうしよう。あんなふうに飛ばれたら振り落とされちゃう」

「そこは歌でどうにか。それにしてもネア、歌って操るってどんな感じなの? 私にはちっとも想像できないや」

 ん、とネアは考え込んだ。言語化しようとすると、存外に難しい感覚だ。

「合唱してるだけなんだよ。エデンソングもたぶん同じなんじゃないかな」

「合唱?」

「こうしてって指示する代わりに、この曲をやろうって伝える。頭の部分を歌うだけで、エデンソングも追いついてきてくれる。同じ主題でも少しずつ雰囲気を変えたり、片方が主旋律を担ってもう片方がコーラスに回ったり……厳密に決まってるわけじゃなくて、その場しのぎのこともある。大事なのは、相手の声に耳を澄ませて反応すること」

「分かるような、分からないような。それで思ったとおりに動いてくれるの?」

「だいたいは」

 ペトラはいったん首を傾げたが、ややあって、

「そんな感じなのかな。でも私とトールシップも体の感覚でやってるわけで、言葉で説明しろって言われてもできないしなあ」

「たぶん一緒だよ、空魚使いのその感覚と」

 納得したらしく、頷きが返ってきた。

「ところでさ、鯨に乗る人はなんて呼べばいいんだろう。鯨使い?」

「考えてなかった。鯨使い――なのかな」

「なんにしても、この空の歴史上、ネアが初めてだよね? だって竪琴鯨だもん。英雄になれるかも」

「英雄だなんて――」

 とかぶりを振りながら、今さらのように問題が山積していることに気付いた。エデンソングが人間の協力者として留まってくれるとして、その立場はどうなるのか。第一発見者とはいえ、この伝説の生き物を、ただの小娘でしかない自分が使役することが許されるのか。

「これから、どうしよう?」

 そうとしか言わなかったが、ネアの胸中を不安が満たしはじめたのを察したらしい。ペトラは改めてこちらを見返し、普段どおりの笑みを浮かべながら、

「考えること、いっぱいあるよね。帰ったらイルマさんに相談してみようよ」

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