7

 濃密に密集した巨大な雲の奥が、蒼く翳っている。よほど珍しい光の悪戯か、あるいは異常気象の前触れのように、ペトラの目には映ったに違いない。驚いて立ち竦んでいる彼女の小さな手を握り、岬の淵の、自身の定位置へと導く。

「いつもここで歌うの。私の声、やっと届いたんだ」

 やがて雲の向こう側から、艶やかな声が響いてきた。ネアが紡ぎ出した旋律への、空からの返答。それは確かな歌声だった――優雅な波のように高まったり低まったりしながら、接近してくる。

 遂にして声の主が現れた。まずは頭だけを雲間から突き出し、続いて胴体。空の色をより深くしたような蒼で、朝の陽光を跳ね返しながら輝くそのさまは、かつて見た飛空船にも似ている。

「紹介するね、ペトラ。この子は〈楽園の歌〉」

 どんな空魚よりも大きなその体が、岬に横付けされる。ゆったりと呼吸するように上下しながら、その場に留まった。短い歌声がまた発せられる。二度、三度。

 ふたりでぎりぎりまで前進した。蒼く滑らかな小島が、そこに浮かんでいるように見えた。しばらく見下ろしてから、ネアは手を繋いで隣り合ったペトラに視線を移した。

「竪琴鯨――本当にいたんだ」開いた唇から小さく洩らしたかと思うと、彼女は目を輝かせて抱き着いてきた。「凄いよ、本物の竪琴鯨だ。ネアが呼んだんだね」

「エデンソングが答えてくれたおかげだよ。私は自分の歌を――ううん、お母さんの歌を、ただ歌ってただけ」

「歌の力を信じて、届けたのはネアだよ。他の誰でもない、ネアが見つけた鯨」

 後方で控えていたトールシップが、耐え兼ねたように泳ぎ寄ってきた。鰭をばたつかせつつ、ペトラとネアの周辺を興奮気味に旋回しはじめる。

 初めて目にする鯨の堂々たる体躯に驚いているのだろう。しかし怯えているふうではなかった。主のペトラと同様、興味津々の風情だ。

「もう一回、鯨を動かせる? こっちを向かせてみて」

 やってみる、と応じて、ネアは再び歌声を通じて呼びかけた。エデンソングは尾を豊かに振りながら、すぐに方向を転換する。

 正面に立ち、改めて観察した。下顎から腹部にかけては白く、並行した皺が無数に走っている。呼び名のとおり、模様が竪琴のように見えた。目が丸々として大きく、どこかあどけなさを感じさせる面立ちをしていることに、ネアは気付いた。

「エデンソング、何歳くらいなんだろう」

「仔鯨、ひょっとしたら赤ちゃんかも。この子、とってもネアに懐いてるみたいだよ。トールシップもよく、こういう顔してるもん」

「ほんと?」

 トールシップとエデンソングとを交互に見比べてみた。外見はむろん似ても似つかないが、指摘されてみれば確かにそんな気がしはじめた。出会って間もないこの鯨が、このうえなく愛おしい存在に思われてくる。いかに巨獣とはいえ、まだ幼いのだ。

「いい子」

 ゆっくりと歩み寄り、その蒼い肌を撫でた。エデンソングは拒むことなく、むしろ積極的に身を擦りよせてくる。ネアは頬をほころばせた。

 やがてエデンソングが下降し、眼前に背中を差し出してきた。広々とし、しかも思いのほか平坦である。艶やかな光を放っていることを除けば、地表とあまり変わりない。

 ごく自然に、乗り移ってみようと思い立った。不思議なほど恐怖は無かった。

 一歩を踏み出す。鯨の背は程よく硬く、ネアを確実に受け止めた。そろそろと頭部の近くまで移動する。ちょうどよく跨れる場所を見つけて、体を安定させた。

「ネア、乗れてるよ! そのまま飛んでみて。私たちが見てるから平気だよ。なにも心配しないで」

 言いながら、ペトラがトールシップを駆って空中へと飛び出していく。岬から少し離れた位置で静止して、ネアを手招いた。

「ほら、ここまで来てみて」

「分かった。エデンソング、お願い――飛んで」

 祈りとともに唇を動かした。生じた旋律に呼応して、鯨もまた歌いはじめる。竪琴の弦に指を滑らせるように、低音から高音へ。波動がネアの体を、そして空気を震わせ、拡散していく。

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