6

「イルマさんが前に着てた空魚使いの服を、ちょっとだけ貸してもらったんだ。私には大きかったけど、袖を折り返したら着られたの。もちろん本当は、正式な空魚使い以外は着ちゃ駄目なんだけどさ、私ね、返す前に、その、ネアに――」

 浮き浮きとした口調で語りつづけていたペトラが、不意に口を噤んだ。正面に回り込んできたかと思うと、拗ねたような表情を露わにする。

「聞いてる?」

「ごめん、ぼうっとしてた」

 もう、とペトラは息を吐き出して、またネアの隣へと並んで歩きはじめた。携えた布製の鞄を大袈裟な仕種で肩へ引き上げなおし、ちらりとこちらに視線を寄越す。

「ネア、制服って格好いいと思う?」

「人並みには」

「あんまり思わないってことか。私はすごく憧れがあるの。イルマさんみたいに――なんて。私ってちびだし、あんまり賢くもないけど、でも好きだな、素敵だなって思ったら止まらないことだけは自信がある。私、絶対に凄い空魚使いになるよ」

「なれるよ」とネアは告げた。「あとは十五歳の任命式を待つだけ」

「三年もある。イルマさんでさえ早期任命はなかったって、信じられない。なんだってあと三年も立ち止まってなきゃならないんだろ」

「迷う子、気が変わる子もいるかもしれないから――なのかな。十五歳で将来を決めるのって、私は早いと思っちゃうんだ。まだいろんなことが、たくさん起こるのに」

 そうかも、と応じつつも、ペトラは少し不満顔だった。

「でも私はもう迷うつもりはないの。ちゃんと飛べる。それでも必要な時間なのかなあ?」

 問いに対する答えを、ネアは持ち合わせなかった。ただ自分とペトラは違う存在なのだという当たり前の事実だけが意識され、少し胸苦しくなった。

 一直線に飛べるペトラが眩しい。しかし私は私なりの、空の飛び方がある。迷いながら、ふらつきながら、しかし懸命に、それを掴もうとしているのだ。

「ネアさ」ペトラが呼びかけてきた。俯いて足許を見下ろしている。「今週も、お休みは忙しいんでしょう」

 頷く。なるべくはっきりと聞こえるように声を張って、

「うん。やりたいことがあるの」

「そっか。じゃあ分かった」

 ペトラはあっさりとした口調でそう言うと、足取りを速めてネアを引き離した。追いかけようとしたときにはすでに、彼女の姿は分かれ道の手前にあった。それぞれの自宅へ帰ろうとすれば、ここで左右に分かれることになる。

「また来週ね、ネア。やりたいこと、上手くいくといいね」

 ペトラは手を振ると、返事さえ待たずに駆けていった。途中で一度だけ振り返ったが、なにを言うでも、またこちらから声をかけられるでもなかった。けっきょくその影が視界から失せてしまうのを、ネアは黙って見送ったのみだった――。

 翌朝も、早くに目覚めた。すっかり習慣となりつつある。クリームをたっぷり入れた濃いお茶を一杯だけ飲み干すと、手早く身支度を整えて家を出た。目指したのはもちろん〈天使の息吹〉である。

 嶮しい道のりを踏破するのも慣れてきた。ネアは定位置に立つと、朝の空気を深く吸い上げた。軽い発声から始める。少しずつ声を伸ばしていき、遠くへと響かせた。

 今日も雲が見事に聳えている。複雑に盛り上がり、折り重なって、白く壮麗な立体を成している。その膨らみを、紫色の影を、隙間に覗く空の蒼さを、ネアは歌いながら凝視した。静謐なようでいて、流れやうねりが絶えることはない。生きているみたいだ、なにもかもが。

 同時に耳を澄ませた。声はまだ――聴こえない。

 主旋律を繰り返した。感情が歌として宙に放たれ、波となり、増幅する。小さな島の、小さな岬の先端から、遥かな空へ向けて旅立っていく。

 歌い終えたとき、胸中に確信めいた予感が漲るのを感じた。きっと、届くはずだ。

「――ネア」

 背後から小さく名を呼ばれ、振り返った。トールシップを傍らに連れたペトラが、彼女らしからぬ弱々しい表情で佇んでいた。今にも泣き出してしまいそうに見えた。

「ペトラ。どうしてここに?」

「その」と彼女は口籠った。「ここにいると思って。最近、あんまり話ができてなかったから」

 おずおずと歩み寄ってきた。主の心境を慮ってか、トールシップも鰭を縮めてひっそりと浮かんでいる。

「私、考えたの。今までネアのこと――無理に引っ張り回しちゃったのかなって。格好いいところを見せたいとか、一緒に飛んでほしいとか、ぜんぶ私の勝手だった。気付けなくて本当にごめんね。友達だから一緒だって、私と同じように考えてるはずだって、ひとりで決めつけてたんだと思う。分かんなかった――イルマさんに相談するまで、なんにも」

 途中からは咽声だった。潤んだ目でこちらを見据えているペトラを、ネアは引き寄せて抱き締めた。肩に押し当てられた額の感触。

「私こそごめん、不安にさせて。正直に言うと空魚に乗るのは苦手だし、怖い。私はペトラみたいにはなれないよ。でもペトラが私に呆れずにいてくれるの、嬉しかった。いつもそばにいてくれて、励ましてくれて、ありがとう」

 うん、うん、とペトラはネアの肩に縋りついたまま、繰り返し頷いた。やがてゆっくりと体を離し、ぎこちない笑みを見せる。

「やりたいことがあるって言われたとき、ネアはやっぱり空魚使いにはならないんだって、私とは別のほうに行っちゃうんだって、すごく淋しくなった。どうしたらいいか分からなくて、私、イルマさんちに駆け込んだんだ」

「自分から話をしに行ったんだね」

「他にどうしようも無かったから。実際、ドアを開けてもらった瞬間にわあって泣き出しちゃった。でもイルマさんはいつもみたいににっこりして、まずは落ち着きなさいってお茶を出してくれた。苦いお茶だったけど、苦いほうが頭がすっきりするって。飲んだら確かにそんな気がしてきた。少し冷静になれて、賢くなった感じがしたよ」

「うん。それで、イルマさんはなんて?」

「ペトラはペトラで、ネアはネアなんだよ、ただそれだけなんだよって。もし違う道を進んだとしても、お互いを失うわけじゃない。だからなにも心配いらないよって」

 なにも心配いらない――言葉がじわりと浸透してきて、ネアの胸中を温かく満たした。そう、心配はいらないのだ。十二歳の少女がちょっとくらい迷い、ふらつこうとも、些細な冒険をしようとも、それで世界が滅びたりはしないのだ。

「ねえ、ペトラ。私、もうひとつ謝らなきゃいけないことがあるの。隠し事をしてた。ペトラに――格好いいところを見せたくて」

「なに? え、うわ」

 ちょうど強い風が吹き寄せて、ふたりの服をはためかせた。ネアは飛び跳ね、ほら見て、と空を振り仰ぎながら告げた。

「嘘――なにあれ」

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る