5

 今日こそ〈天使の息吹〉で歌おう。昨日歌えなかった歌を。

 覚醒の直前、ネアは音だけの夢を見ていた。物心ついたばかりのころから、不思議とそういうことがある。たいがいは目が覚めると同時に掻き消えてしまうのだが、今朝は音の記憶が明瞭に残っていた。

 母のかたった物語に登場する歌。空に響き渡る懐かしい旋律。

 家を出発したのは、昨日よりもさらに早い時間だった。朝焼けに包まれる寸前の、薄青い空。静寂に満ちた街を抜け、岩だらけの道へ向かう。

 島には狭いが切り立った崖が無数にある。空魚での通行を前提としているのだろう、橋の渡されていない箇所も多い。恐ろしく遠回りな徒歩のルートは、存在するというだけで使う者はほとんどいない。

 いつも以上の勇敢さで、ネアは岬へと続く斜面をジグザグに上っていった。足許が平坦になると、ほどなくして崖のひとつにぶつかった。ネアが〈浮遊石〉と呼んでいる連続した岩を渡り、向こう岸へと至った。自然に形成された飛び石だ。むろん本当に浮いているわけではないはずだが、どこからどう突き出しているのかは上からでは視認できない。初めて渡ったときはおっかなびっくりだったのを思い出す。

 足場が再び急になり、やがては壁面を攀じ登っているに近い有様となった。凹凸を手掛かり足掛かりとしながら、少しずつ体を引き上げていく。そこを乗り越えた先が、〈天使の息吹〉だった。

 ネアは岬の淵に立つと、いつものように足許を見下ろした。雲が今日はずいぶんと大きい。街全体をすっぽりと覆い隠しているのみならず、オブジェのように立体的に聳え立って、視界の大半を占拠している。

 やがて昇りはじめた真新しい太陽が、空の果てを薔薇色に染め上げていく。濃く深い青に沈んだ夜の領域と、燃え立つような朝の領域。ふたつの世界が交じり合う境界線を、ネアは一心に見ていた。風に前髪を揺らされながら、胸元に手を当てて。

 この空には奇蹟の起こりやすい時間帯がある――亡母が悪戯気な、それでいて確かな口振りで語ってくれたことがある。たとえば雨上がり。たとえば夜と朝の狭間。人間がもっとも美しいと感じる、しかし滅多に捉えられない一瞬に、おまえが運よく立ち会えたなら、この歌をうたいなさい。ちゃんと耳を傾けて、声を聞いてくれる者がいるから。

 ネアはゆっくりと唇を開いた。迷うことはなにひとつ無かった。旋律がおのずと溢れ出し、広がって、空へと舞い上がっていく。

 なんだろう、これは。いったい、なにが起きているの?

 声を響かせながら、ネアは自問していた。こんなことは初めてだ。決定的に――なにかが異なる。

 初めて聴かされたときからずっと、不思議な歌だと感じてきた。音像も、展開も。記憶の奥底に留まっている時間ばかりが長く、歌うべき機会もなかなか見出せずにいた。

 漁の歌、祭りの歌、儀式の歌……使いどころをよく弁えた、しっくりと手に馴染む道具のような歌とはまるで違う。掴みどころがなく、気紛れだ。脳裡にふと浮かび上がった瞬間こそ鮮明なのに、声に変換して外界に送り出そうとすると、途端に曖昧になる。空気に触れるなり崩れてしまう、謎めいた結晶のような存在。

 それが今や、歌い手たるネアと完全に一体化していた。

 微細な音の粒子が放つきらめきが相互に作用して、空間を彩っていく。どの粒をいつ、どこに配置すべきか。もっとも目映く輝かせるにはどうすればいいか。優れた建築家が、あるいは画家が、彫刻家がそうするように、ネアは自身の声という材料を用いて、ひとつの造形物を組み上げようとしていた。

 完成間近になって気付いた。どうしても必要な一音が、自分の、いや、人の咽からでは発しえない高さにある。どれほど優れた歌い手であれ、人間の跳躍では決して手が届かない領域に。

 ここまで来て――触れられないのか? もう少し、もう少しで辿り着けるというのに、引き返さねばならないのか?

 胸苦しさに泣き出しかけた瞬間、それは起きた。ネアが心から欲した響きが生じて、岬を満たしはじめたのである。遥か彼方から、それでいて確かな音量で。

 声だと思った。人間のものではありえない。しかしこの上なく音楽的で、甘美だ。空気がうねり、どこか官能的な揺らぎを帯びていく。ふたつの声が出会い、絡み合うことで生まれる新しい波動を、ネアは全身で感じ取っていた。生まれて初めての体験に慄き、胸を打ち震わせながら、その不思議な合唱を楽しんだ――。

 あなたは誰? 歌声を通じて、ネアはそう訊いた。風が起きる。視線の先、空と雲とが混然となった一帯から、なにかが突き出した。距離があるので大きさは判然としない。深く青々とした表層が、朝日を浴びて強い輝きを放っている。

 音楽が終わっても、相手が姿を消すことはなかった。ゆったりと近づいてくる。ネアは胸元に手を当てたまま、うわあ、と声をあげた。

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