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「ごめんなさい、イルマさん」家に着くなり、ネアは声を張った。「本当にごめんなさい」

 部屋にあかりを灯していたイルマが、はたとこちらを見返す。どこか驚いたような顔だった。視線を逸らさずに直立していると、やがて彼女はふっと頬を緩ませて、

「別にお説教するつもりじゃない。ひとまず座りなよ、ネア。一緒にお茶でも飲もう。クリームは入れたほうがいい?」

「え? でも――」

 面食らったネアに、イルマは穏やかな笑みを向けた。来客用の長椅子を示して、

「座りなって。希望が無いなら、私のお気に入りの味にするよ。甘いほうが元気が出るんだ」

 おずおずと腰掛けた。イルマが台所に行き、お湯を沸かしはじめる。

 部屋に通されるのは久方ぶりだった。壁に備え付けられた書架には、空魚に関するものらしい資料がぎっしりと並んでいる。目を細めて背表紙を眺めた。他とは趣を異にする、古ぼけた本がいちばん端にあった。題名は――ここからでは読み取れない。

「お待たせ」

 盆を抱えたイルマが現れたので、ネアは姿勢を正した。カップと壺がテーブルに並べられる。濃いクリームがたっぷりと注がれたお茶は、柔らかく穏やかな香りがした。

「ネア。まずおまえに訊きたい。おまえは本当に、空魚使いになりたい?」

「なれたらいいな、とは――もちろん。この街の住人は、ほとんどが何らかの形で空魚に関わるし」

 イルマは口許にカップを運んでから、短く息を吐き出した。

「本当に、と私は訊いたんだよ」

「嘘じゃ、ないよ」

「そう。だったら質問を変えよう。空魚使いになるのが、おまえの夢?」

 ネアは手許のカップに視線を落とした。いつの間にかクリームの層が消えて、お茶本来の赤茶色が現れていた。自分の影がぼんやりと映り込んでいるのが分かった。

 やめようと思った。自分でも驚くほど素直に、そう思えた。

「夢かと訊かれると、正直なところ――違うんだと思う。ペトラみたいに空魚に乗れたらって、考えることはある。でもペトラにはペトラの努力があって、苦しさを乗り越えて、いまのペトラになったって知ってる。私にはきっと、そこまでの情熱は持てない」

 俯いたまま告げる。ずっと前から分かり切っていたことだった――あえて言葉にするのを避けてきただけで。

「イルマさんに失望されても仕方ない。自分は空の世界にふさわしくないって思う。もう十二歳なのに――私は」

 凄絶な覚悟の上での告白のつもりだった。しかしイルマの反応は、ネアの予想をあっさりと裏切った。あはは、と快活に笑ったのだ。

「その程度のことで失望なんかしない。もう、だなんて私は思わないよ、ネア。まだ、だ。おまえは当然のこと、私だってまだまだだ。自分の成すべきことなんて、そう簡単に分かりっこないんだよ」

「だけどイルマさんは空魚使いでしょう。この街いちばんの」

「この街、ね。もちろん自分の故郷、この〈黄金の雨〉は大事だよ。ただし、それだけじゃない。せっかく空の世界に生まれたんだから、もっと高く、遠くに行きたい。空魚使いの仕事だってそうだよ。名誉なことには違いないし、空魚たちのことは大好き。だけど、それが人生のすべてと思ったことはない。一度もない」

 ネアは瞬きを繰り返した。イルマはもうとっくに、自身の役割を揺るぎなく確信しているものと思っていた。空魚使いとして〈黄金の雨〉に貢献する人。ただひとつの道を、迷いなく突き進んでゆく人なのだ、と。

 イルマが身を乗り出してきた。ことさらに語調を強め、

「確かに空の世界において、空魚使いは重要な存在だ。この〈黄金の雨〉の住人も、大勢が空魚使いになる。でも全員じゃない。そうでしょう? ネアのお母さんだってそうだった」

「お母さんは――体が弱かったから」

「かもしれない。でも街じゅうのみんなが、お母さんを尊敬してた。優れた――本当に素晴らしい語り部だった。私もたくさんのことを教わったよ。ネアのお母さんの物語を聞いて、私は夢見るようになったんだ。夢見てもいいって思えるようになったんだよ」

 ネアは母のことを思った。滑らかな薄絹のような声を思った。幼い自分を寝かしつけるべく、夜毎かたってくれた物語を思った。ともに過ごした、短い、鮮やかな幻のような日々を思った――。

「イルマさんの……夢」

「うん。私はね、ネア。いつか飛空船乗りになりたいんだ。自分の船を持って、空の果てまで旅をしたい」

「飛空船?」と思わず反復した。「飛空船って、あの?」

「そうだよ、あの飛空船だ。驚くのも当然だね、私が飛空船だなんてさ」

 イルマは立ち上がり、書架の前に移動して屈みこんだ。分厚い一冊を抜き出し、ゆっくりとテーブルへと運んでくる。

 図説だった。さんざんに読み込まれたものらしく、色褪せてぼろぼろである。開かれた頁には、詳細な飛空船の絵が描かれていた。

「さっき私たちが見たのはこの船だ。〈空都〉の研究施設にある調査船だね」

 その楕円形の船体と涼やかな銀色は、確かにネアの記憶と一致した。〈果てしなき冒険〉号。空棲生物の生態系の調査や、新種の発見を目的とした長距離飛行を幾度も実施している。プロジェクトには常に、空棲大型種の専門家であるロイネ博士が首席研究員として参加する。

 ネアは慎重に、

「飛空船乗りになるためには、すごく難しい試験があるよね。それに今の飛空船乗りは、みんな男の人」

「そのとおり。でもいいだろ」イルマは即答し、白い歯を覗かせた。「ときどき想像してみるんだよ。自分の船で飛ぶ空はどう見えるのか。空魚に跨ってるときとはどう違うのか。よく知っているようでちっとも分からない空のことを、もう少しは分かるようになるのか。私の船にはね、私と同じくらい夢見がちな友達、できれば船歌が巧い子を乗せたいんだ。そうすればきっと、心地いい旅になるから」

「そんな日が――来たらいいな」

「来るよ。空は広いんだ。どんなことだって起きる。私たちは何にだってなれる」

 自由だ、と彼女は自分に言い聞かせるように付け加え、それからゆっくりと、掌を左胸の前に運んだ。

 今度は自然と、ネアも自身の胸元に手を当てていた。眼前には、強い輝きを放つイルマの瞳があった。

「私がおまえたちに空魚の訓練を付けるのは、ただ技術を教え込みたいからじゃない。学んでほしいこと、先達として残したいことは、他にもたくさんあるんだよ。一生かけたって、きっとその百分の一も伝えられないだろうけどね」

 ふふ、と彼女は笑った。柔らかな、澄んだ笑みだった。

「でもね、ネア。これだけは覚えておいてほしいんだ――ちゃんと耳を傾けて、声を聞いて」

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