3
不意に、低く長々とした笛のような音が上空から響いてきた。三人で同時に見上げる。白い尾を曳きながら飛んでいく物体が、すぐに目に入った。空魚ではない。ずっと巨大だ。
「すごい、飛空船だ」ペトラがはしゃぎ声をあげながら、再びトールシップに跨った。勢いよく飛び上がって追いかけはじめたが、距離はまるで縮まらない。
飛空船は静かに凪いだ水面のように、陽光を跳ね返して輝きながら、悠然と空を横切っていく。どこか遠くの島へ向かう船だろうと、ネアは漠然と思った。空気よりも軽い特別な気体を使って浮遊する、羽を回転させて推進力を得る、風に逆らってさえ空魚の数十倍の速さで飛ぶ、飛空船乗りはこの空に数人しか存在しない――いつか母から聞いた知識が、断片的に浮かんでは消える。
傍らをちらりと伺って驚いた。イルマは小さく唇を開いて、飛空船に見入っていた。年相応に無邪気な、それでいて真剣な、今までに見たことのない表情だった。彼女でもこんな顔をするのかと思い、同時に盗み見が申し訳なくなって、ネアは視線を戻した。それからは船影が彼方に去ってしまうまで、ぼんやりと空を眺めつづけていた――。
「私、飛空船って初めて見た。もっと近くで観察したかったなあ」
やがて戻ってきたペトラが、トールシップの背からするりと滑り下りる。
「そうだ、今度はネアの番だね。私、ここで応援してるね」
その言葉を合図に、飛空船が運んできた夢想の時間は終わった。普段の、優秀な空魚使いにして指導者の顔つきを取り戻したイルマが、よし、と発する。広場の中央に立つよう、きびきびとネアに指示した。
「まずは安定して浮遊するところから。タイダルはいちばんバランスを取りやすい空魚だから、落ち着いてやれば大丈夫。すぐに慣れるよ。呼んでごらん、信頼関係を築くんだ」
言われるがまま、空魚の名を呼んだ。声は硬く、少し掠れて響いた。眠たげな様子で泳ぎ寄ってきたタイダルが、目の前で静止する。
ネアは怖々、
「踏んだら驚かないかな」
「踏むんじゃない、乗るんだ。平気だよ、空魚はそう簡単に潰れたりしない。タイダルだって人を乗せるのは好きなんだ。ちゃんと耳を傾けて、声を聞いて」
「空魚の声?」
思わず振り返って問うと、イルマは確信に満ちた声音で、
「確かに空魚は鳴かない。この空で鳴く生き物がいるとしたら、竪琴鯨だけだ。でもねネア、私が言ってるのはそういうことじゃない。おまえなら分かるよね?」
掌を胸元に当てている。ネアも慌ててその動作を真似たが、手は幽かに震えた。ふわふわと波打っては色を変えるタイダルの背中を、じっと凝視する。
平たい菱形なので、ただ乗るだけならば容易そうに思えた。イルマも穏やかな空魚だと請け負ってくれた。平気だ。そっと足を乗せ、体重を移動し、あとはゆっくりと体勢を整えれば――。
唐突に視界が傾いた。なにが起きたのかさえ分からないうちに、ネアの体は宙に放り出されていた。
どうにかバランスを取ろうとしたが上手くいかず、そのまま落下して尻餅をついた。衝撃や痛みは鈍く、むしろ一拍遅れて生じた情けなさのほうが堪えた。鼻の奥がぎゅっと締め付けられる感覚。
「大丈夫?」駆け寄ってきたペトラがネアを抱き起こし、それから昂奮した面持ちでタイダルを睨んだ。「わざと降り落としたの? だったら許さないから」
違うよ、とペトラの腕の中でネアはかぶりを振った。
「タイダルはじっと浮かんでただけ。私が失敗したの。イルマさんの空魚だよ、そんなことするはずないでしょう?」
途端にペトラは困惑した表情になった。一点で静止している平らな空魚に乗れない、という状況が想像できないのだろう。無理もない。
「確かに今のは、タイダルのせいじゃない。誓うよ、タイダルは人を振り落としたりする子じゃない。私が訓練したんだ」
歩み寄ってきたイルマが迷いなく言った。はっきり断じてくれたことに、かえってネアは安堵していた。タイダルの無実は、自分がいちばんよく理解している。基本的な空間把握能力、身体感覚、バランス感覚――今の自分には、空魚使いに必要なものがなにも備わっていないのだ。
「ネア、痛くない?」
「うん、平気。怪我は――してないから」
「よかった。じゃあもう一回やってみようよ。今度は平気だから、ね?」
「ペトラ」イルマが低い声で発した。説得の言葉を遮ったように、ネアには聞こえた。「空魚たちをみんな連れて、軽く運動させてきてほしいんだ。そうだな、一時間。一時間したら、ここに戻ってきて」
「準備運動ってこと? 終わったら再開するんだよね?」
問い掛けにイルマは答えず、お願い、行ってきて、とだけ促した。トールシップに乗ったペトラと空魚たちが飛び立ち、影が見えなくなってしまうと、ゆっくりとこちらに顔を向けた。
「おいで、ネア。私の家で少し話をしよう」
口実を付けて、さりげなくペトラを遠ざけてくれたのだと察した。同じ叱られるにしても、ひとりのほうがまだ気楽だ。
黙って追従した。たいして距離が離れているわけでもないのに、先に坂道を上るイルマの背中が遠く見えた。せめて迷惑をかけまいと、足取りを速める。
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